昭和20年2月20日香取航空基地上空は雲が多く、寒風は肌を裂かんばかりである。整備員たちの徹夜の作業で、搭乗機は見事なまでに磨き上げられていた。各機には、爆弾や魚雷が搭載されている。ピカピカの魚雷には真っ黒な実用弾頭が着けられ、見るからに不気味さが漂う。誰がつけたのだろうか、お守りがつけられている。
出 撃 命 令
午前8時、杉山司令の発声で万歳三唱、決別の杯がかわされた。指揮所前に集合した隊員に対して、杉山司令から出撃命令が下った。
「一機一機主義で行け、断じてぶつかれ。細心沈着に行動して果敢に命中せよ。雷撃隊は魚雷発射後、体当たりせよ。護衛隊戦闘機は、戦果確認後、父島帰着、報告後、再度爆装し突入せよ」
指揮官の村川大尉は挙手の礼をした後、隊員の方に向かって、ただ一言「出発、かかれ」と命令した。隊員は敬礼し,愛機の方に駆けて行く。平常の訓練と何ら変わるところはない。
特攻機32機が次々と離陸
出発の準備が完了すると、手を挙げて指揮官機に合図が送られた。指揮官機は全機の完了を見極め、地上滑走して離陸地点に向かう。
地上では、総員が帽子を振り、決死の出撃を見送った。離陸した彗星艦爆12機。零戦12機、天山艦攻8機の計32機は次第に高度をとり、編隊を整えながら香取基地を1週し、中継基地八丈島に向かった。
しかしこの日は八丈島までの天候が不良であった。このため指揮官の村川大尉は大事を取り,全機に引き返しを命じた。簡単な様であっても、実は容易ではない。必死の覚悟で、また総員の見送りを受けて離陸し途中から引き返すには、相当の決断力が必要である。沈着、冷静な判断力を持つ真の勇者のみがなしうるところだろう、こういう場合、よく天候に食われて自滅することが多いからだ。
昭和20年2月20日朝大勢の人々に見送られ香取基地を出撃したが、八丈までの天候悪化で引換した。着陸した村川大尉を迎えた士官室では又賑やかにブリッジが始まった。天気予報では、航路の天候、特に硫黄島付近は下り坂で、21日以後は作戦が困難となる心配があった。明日の天候が気がかりだったが、午前3時の天気図を見て、最終決定をすることとし、隊員たちは眠りについた。
この後、気象掛士官の持ってきた天気図は、予想に反して航路上の天候が良かった。父島北は晴れ、以南は雲高1000〜1500メートルの予報である。これを聞いた司令、飛行長はホッとした。どうやら“仕切り直し”は1回で済みそうな気配だからだ。
開けて2月21日。村川大尉指揮する第二御盾隊は、前日と同じく総員の見送りの中、午前8時に香取航空基地を発進した。そして10時ごろまでには全機が八丈島に到着した。ここで全機の燃料を満載した後、第22航空隊の基地隊に招待され、第2御盾隊の成功を祈って用意された酒肴や赤飯などの昼食を食べ腹ごしらえをした。
各攻撃隊は、迎撃戦闘機による被害を少なくするために、分散攻撃体制をとる事になっていたので15分間隔で発進した。又この八丈島に着陸する際、第5攻撃隊の1番機が脚を折損した、これは隊長機であったので4番機の栗之協直上飛曹に「貴様の飛行機を貸せ、どうしても攻撃に行くんだ」と言って無理やりに隊長機のペアが乗り、栗之協直上飛曹のペアを八丈島に残留させて3機で出撃した。
放たれた「御楯」の矢
やがて八丈島の基地から香取基地に入電があった。正午までに彗星艦爆隊と直衛戦闘機隊は八丈島を出発し、天山艦爆隊は午後2時、脚を破損した1機を残して出発したという連絡である。
突入予定時刻は午後4時だった。まだ少し時間がある。独りになりたかった艦攻隊長・肥田大尉は私室に引きこもって、静かに瞑想にふけった.既に矢は弦を放たれた。自分が指揮官で行くべき特攻隊が今、硫黄島沖の敵機動部隊目掛けて飛んでいる。村川大尉なら、必ず自分以上にやってのけるだろう、数日来の事が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
午後4時近くになりどうにも気が落ち着かなくなった肥田大尉は、電信室をのぞいて見た。すでに司令、飛行長らは着いていた。大尉は電信員の横の席に座ると、真剣な顔で受信機の調整をしていた先任下士官が、黙ってレシーバーの予備を差出した。肥田大尉はそれを受け取り、耳に当て目を閉じた。いつの間にか自分も天山艦攻に乗り、硫黄島に向かって飛んでいるような錯覚に陥る。司令も飛行長もレシーバーを耳に当て、さながら祈っているかのようだ。
その間にも、電信員はダイヤルを細かく調整する。次の一瞬、かすかな電信符号が耳に入る.第2攻撃隊1番機の符号である。
「トト…」(突撃せよ)だった。「やった!」肥田大尉が思わず口走る。午後4時だった。「ニタです。3番機!」電信員が鉛筆を走らせながら叫ぶ「われ輸送船に体当たり」であった。
また、符号が入った。「あっ、村川隊長機だ!」皆が一斉に緊張する。「われ航空母艦に突入す」続いて長符「一」送信機を抑えている音である。体内が張り裂けんばかりの緊張を覚える。間もなく電波が切れた。ああ、ついにやったか…。これが体当たりの瞬間である。時刻は4時15分だった。「村川隊長、母艦に体当たり!」と電信員が付け加えた。
渦巻く複雑な感情
(成功の喜びと悲しみ)
昭和20年2月21日午後4時15分一、第2御盾隊の指揮官・村川弘大尉が敵空母に対し壮烈な体当たりを刊行した時刻だ。
特攻機が突入するときには,先ず自分の符号を発信し、続いて突入する目標を示し、突入中はキーを押したまま、したがってこの符号が切れた時が突入の時間となる。成功してよかった、という喜びと、たった今散華した特攻隊員の命、身の上などに対する感情が渦巻く、誰1人として言葉を発する者はいない。杉山指令はレシーバーを外すと電信員に返し、目礼して静かに電信室から立ち去って行った。
「次は艦攻の出番だ」自分の直接の部下である雷撃隊は、どうなるだろうか、直衛戦闘機のいない裸の天山艦攻が敵戦闘機に遭遇しなければ良いのだが……肥田大尉は幸運を祈った。とにかく、敵艦船に無事到着し。魚雷を命中させれば、1発で輸送船なら沈没、空母でも大破させる威力があるのだ。肥田大尉は部下の技量を信じている。「ヒヒ…」が発信されれば「敵戦闘機見ゆ」で万事休すだが、幸いにしてまだ受信していない。
電信機は強力であり、連絡は確実に取れるはずだった。午後5時30分、いよいよ日没の時間を迎えた。もう戦闘機の心配はない。だが、あと1時間以内に敵を発見しないと暗くなり、攻撃が困難となる。次第に気が気でなくなってきた。
午後5時45分、第4攻撃隊より、待ちに待った「トト…」が耳に聞こえてきた。肥田大尉は思わずこぶしを握り締めた。各機とも800キロ爆弾を1発ずつ搭載している。彗星艦爆の様に急降下爆撃は出来ないので貫通力は少ないが、艦爆の500キロ爆弾より爆発力が大きいため、効果は相当期待できる。
2分後の5時47分、3番機から、同50分、4番機から「われ輸送船に体当たりす」と続けざまに入電した。撃沈は確実である。「有難う、成功だ」肥田大尉は思わず心の中で叫んだ。
硫黄島に揚陸する敵兵を満載した輸送船を発見し、こちらの方が重要だと攻撃した第4攻撃隊指揮官の判断力は敬服に値した。残るは魚雷を搭載した第5攻撃隊の動向である。この攻撃隊こそ、本来の雷撃隊であった。香取基地から出撃する前、天山艦攻が魚雷を降下後に体当たりすべきか否かで、大論争を展開した場面があった。肥田大尉はそれを思い出しながらも、ひたすら連絡を待っていた。
突然、発信音が響いた。3番機(佐川保男少尉、岩田俊雄上飛曹、小山良知二飛曹)の符号だ。「航空母艦撃沈」 午後5時52分であった。続いて他の2機より、午後6時10分と同17分に「われ突入に成功せり」との入電があった。 大成功である。香取基地の電信室は活気に満ち、通信長は杉山指令に報告のため駆けてゆく。
第5攻撃隊(指揮官桜庭正雄中尉)天山艦攻3機は魚雷を抱き、夕やみ迫る海上を、最も大きな獲物を求めて飛び回り、ついに仕留めたのだ。魚雷を投下したのち空母の撃沈を見きわめ、落ち着いて報告を完了し、魚雷のない天山艦攻を敵艦に体当たりさせたのである。
同日午後1時25分ご特攻史上でも、まさに空前絶後の事だった。肥田大尉は戦場の情景を思い浮かべ、目頭が熱くなるのを覚えた。体内の力が1時に抜けたような気持ちになり、静かにレシーバーを耳からはずし、電信室を出た。
その夜半、硫黄島海軍部隊の指揮官 市丸利之助少将から次のような入電があった。「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う。又沖合に火柱19本を認む」
木更津基地からも出撃
一方、第2御盾隊の出撃に呼応した攻撃704空の一式陸攻6機は、ろ木更津基地を出撃、うち5機が硫黄島に到着し、米軍陣地や艦船を爆撃した。また特攻隊の接敵時間に米戦闘機の注意をひきつけるため704空の一式陸攻4機が木更津基地を発進、うち2機が小笠原諸島付近で、電探欺瞞紙の散布を実施している。
翌22日午後4時大本営は次のように発表した。
「神風特別攻撃隊第二御楯隊数十機は、2月21日午後,硫黄島周辺の敵水上部隊を攻撃せり。戦果=空母(艦型不詳なるも特空母の算大)1隻撃沈、大型空母1隻大破炎上、撃沈ほぼ確実、戦艦(艦型不詳)2隻撃沈、巡洋艦2隻炎上、2隻爆破、輸送船4隻以上爆沈、船種不詳爆沈。他に硫黄島より火柱19本を認む」
大本営発表は、例によって水増しされていたが、実際にどの程度の戦果を上げていたのだろうか。
第601航空隊は次のような総合評価を下している。
第一攻撃隊(彗星4機、零戦4機。500キロ爆弾搭載)=午後4時15分硫黄島東30カイリ付近で護衛空母「ピスマルク・シー」に突入。
第二攻撃隊(彗星4機、零戦4機。500キロ爆弾搭載)=午後4時25分ごろ、硫黄島近海の輸送船に突入,うち1機は故障のため出発が遅れたが、硫黄島付近に進出、グラマンF6F(ヘルキャット)と交戦。
第三攻撃隊(彗星4機、零戦3機。500キロ爆弾搭載)=父島北方でF6F10機に邀撃され、2機が被弾して不時着。残る2機は硫黄島に向かった。
第四攻撃隊(天山4機、直衛零戦なし。800キロ爆弾搭載)=途中1機が故障して不時着大破、3機が午後5時50分ごろ輸送船に突入。
第五攻撃隊(天山3機直衛零戦なし。航空魚雷搭載)=八丈島に着陸時に1機が脚部故障のため3機で出発、午後6時ごろ、硫黄島東40カイリ付近で空母「サラトガ」に突入した。
なお、防衛研究所戦史室著の「本土決戦準備@関東の防衛」の記述によれば。2月21日。第二御楯特別攻撃隊が八丈島を中継して硫黄島周辺の敵艦船を攻撃。空母1撃沈、空母1大破、輸送船1損傷の戦果を報じた。しかし、未帰還21の損害を生じた……とある。
此の未帰還21の内訳は、彗星10、天山6、零戦5となり、敵機動部隊艦船に突入した機数である。機体の故障で八丈島に残留した天山1、零戦1、進撃中エンジン不調で父島に不時着大破した天山1、父島北方でF6F10機と交戦、被弾して父島に不時着した、第3攻撃隊の彗星2、零戦3を除くと、生還は零戦3機だけとなる。
又、第3攻撃隊の父島に不時着した2番機(飛長 河崎 亘、上飛曹 火林 善男)は修理をして出撃可能となり3月1日16時、父島より特攻出撃した。敵艦船に突入したようであるが戦果は不明である。
又防衛研究所の資料の中で、この神風特攻隊第二御楯隊の天山艦攻に魚雷装備を担当した第41魚雷調整班(隊長赤星勝中尉)の戦時日誌の1ページに次のように記されている。
2月13日 601空指令、攻251の要求により25本(天山用)雷装準備
2月14日 攻251 10本は中止、601空用15本雷装準備
2月15日 601空15本 攻251 16本雷装準備
2月16日 12.00 攻251空攻撃中止 601空15本準備待機
6月17日 班員全員進出
6月20日 601空 天山5機雷装攻撃準備 07.30完了、
08.00発進後 09.45中止
6月21日 601空6機雷装攻撃準備 06.30完了
4機発進08.20
となっており、第五攻撃隊は20日には5機準備し出撃したが9時45分に悪天候のため中止して引き返し、21日には6機準備したが4機出撃している。又第2御楯隊とは別の攻撃隊の出撃も計画されていたのか攻撃251飛行隊の雷装準備が目まぐるしく変っている。
16日の敵機動部隊の基地襲撃で破損されてしまったのか?16日午後無蓋掩体壕の中で炎上する数機の天山艦攻を目撃しているがこの飛行隊の天山艦攻であったのかも知れない。
一方数多くの米国側発表の資料を要約すると……。
「昭和20年2月21日午後4時半ごろ空母サラトガが硫黄島北西56キロの水域に達したとき、北西120キロに数点の機影をレーダーで捉えたので,艦長は6機のグラマンF6Fを発進させて警戒することにした。それから20分後の4時50分F6Fから「敵機発見…艦爆(彗星)2機撃墜」の報告が入る。当時1000メートルまで雲が垂れ込めて視界があまりきかないので、空母にとっては攻撃を受けやすい不利な状況におかれていた。
4時59分雲間から突如、6機の日本機が襲い掛かった。対空砲火が一斉に火を吹いた次の瞬間、先頭の2機が火に包まれる。それでも真っ直ぐにサラトガの艦橋めがけて突っ込んできた。機体は右舷喫水線スレスレに激突、搭載爆弾が大音響とともに炸裂した。
続いて3番機と5番機がデッキとカタパルトに激突して爆発。6番機は既に火を噴いていたが、右舷のクレーンに突っ込んだ。わずか3分間の出来事だった。
さらに6時46分5機の日本機のうち4機を撃墜しものの、残る1機が爆弾をサラトガの飛行甲板に投下、直径7,5メートルの大穴を明けた。航海には支障は無かったが、搭載機36機が焼け、3機は着艦できず、不時着を余儀なくされた。
サラトガは必死の消火作業と応急処置により、辛うじて沈没を免れたが、死者23名、負傷者192名を出して戦場から離脱。以後作戦には参加不能になった。
また同時刻ごろ、護衛空母ビスマルク・シーに特攻隊機1機が突入した。これが搭載機のガソリンに引火して火災を起こし、相次ぐ誘爆で火薬庫が爆発、3時間後に沈没した。戦死者は218名」。
このほか、第二御楯隊の攻撃を受けた艦艇で、防潜網敷設艦、戦車揚陸艦477号、同809号が大破されている。まさに特攻史上最大の戦果であった。

