第一航空艦隊(基地航空部隊)の概要
 1      第61航空戦隊 
第61航空戦隊 (昭和19年1月)10部隊  
 
第121航空隊
開隊;昭和18年10月1日
装備機種;陸偵、彩雲
原隊・香取航空基地
「雉」部隊と称する偵察航空隊
昭和19年2月、マリアナ諸島、テニアン島に先発隊として進出 
編成上陸偵48機を保有する予定であったが実際に装備された機数は当初12機と小規模で、昭和19年1月1日24機、同年2月1日42機 と段階的に増加又正式採用前の「彩雲」2機を受領し、マリアナ進出途中1機を遭難で失ったが、新型高速偵察機を最初に実践使用したことで有名。
 
ベテラン操縦士が多かったと言われている。マリアナ空襲後もマーシャル、ギルバート諸島方面の索敵や誘導などを行って活躍。
6月の「あ号作戦」マリアナ沖海戦に米機動部隊の攻撃を受けて壊滅
 
第261航空隊
開隊;昭和18年6月1日 と第一航空艦隊の編成より早かった。
装備機種;零戦
原隊・鹿児島航空基地
虎」部隊と称する戦闘機部隊
編成定数は零戦96機ということになっているが、実際は3分の2ぐらいだったようだ。開隊が早かったので機材、人材共に充実していたと思われる。
昭和19年2月にサイパン島に進出、第一航空艦隊司令部と共にマリアナ進出を予定していたが悪天候で遅れて到着
 
3月30日、米機動部隊によるパラオ空襲に呼応して出撃したが会敵せず、ペリリュー島に着陸、同島が翌日米機動隊の空襲を受け、F6F150機と交戦18機を撃墜したが、261空も28機が撃墜又は地上爆破となって失われた。
 
その後搭乗員はサイパン島に戻り部隊の再建を行ったが、4月26日にメレヨン島上空の敵機撃退戦で大宮島から24機で出撃、B24を4機を撃墜内2機は体当たり、4機を撃破(撃墜不確実なもの)の成果を収め、連合艦隊司令官より賞詞を受ける

さらに5月ビアク島奪還のために戦力を派遣したが、全機(12機)が失われた。
 
6月「あ号作戦」では、サイパンより転進、ヤップ、ワシレ、大宮島、カドブスから出撃果敢に攻撃を繰り返し、総合戦果は、(未帰還者の戦果は含まず)
交戦せる敵機数、グラマン、F6F 490機以上、爆撃機30機以上
撃 墜       グラマン、F6F 71機以上、 爆撃機 5機
撃 破       グラマン、F6F  7機以上
261空の損害は
未帰還、自爆 28機  大破 9機  負傷 2名

あ号作戦で壊滅的な損失をこうむり、、作戦後7月10日解隊となった。
 
第263航空隊
開隊;昭和18年10月1日
装備機種;零戦
原隊・元山航空基地
「豹」部隊と称された戦闘機部隊
編成定数は当初零戦36機、昭和19年2月には72機と倍になった。
昭和19年2月テニアン島に進出したが、先発隊18機(22機という説もある)は、進出後の米機動部隊の空襲に遭遇し、全滅した。
その後も進出を続けたが19年3月米機動部隊のパラオ来襲時、迎激戦に主力の大半を失う。
残存部隊がグァムを拠点に数機の残存零戦を駆って米機動部隊に肉薄攻撃を反復したが、「あ号作戦」決戦当日には殆ど全滅していた。
 

第265航空隊   
開隊;昭和18年11月15日   
装備機種;零戦
原隊・松山航空基地
「雷」「狼」部隊と称する戦闘機部隊
基地航空隊として整備完成を急いでいた第一航空艦隊の一翼を担う戦闘機隊の一つとして整備され、松山航空基地で編成され、新竹航空基地にて練成
 
編成定数は当初甲戦常用37機、補用9機であった。12月1日の搭乗員 数は74名と揃っていたが、そのうち69名が甲飛10期生である。ところが人員に対して機材が集まっておらず、訓練に支障があつたものと推定ができる。 
昭和19年2月1日に定数が甲戦用64機補用18機と倍になる。


第61航空戦隊第341航空隊の訓練の遅れから、第61航空戦隊に入れ替えとなり、飛行隊は4月18日新竹航空基地を離れ、輸送機と輸送船を使用してマリアナに進出
昭和19年5月1日香取航空基地を経由して32機がサイパン島に進出したが、6月1日米軍のビアク島上陸に呼応し、奪還するために戦力の大部分がぺリリュー島に移動した。
 
6月10日木更津航空基地で練成を完了した増援隊16機がサイパンに到着、本隊8機カウに進出、同部隊がぺリリュー島に移動している間に6月11日米機動部隊のサイパン空襲が開始され、残留部隊は玉砕した。
 
6月15日香取航空基地で練成を完了した再増援隊が硫黄島に向うが、到着前の空中戦で壊滅
 
ぺリリュー島に在った本隊もミンダナオ島ダバオ飛行場に撤退し、再編作業によりフィリピン防衛航空隊に組み込まれた。265空は第201海軍航空隊に編入され、特攻作戦にも従事した。なおロタ島に派遣された設営隊は孤立し、自活しながら終戦を待った。


第321航空隊
開隊;昭和18年10月1日   
装備機種;月光
原隊・茂原航空基地
「鶏」部隊と称する夜間戦闘機部隊
編成定数は、当初月光24機、昭和19年2月1日には3倍の72機となる。
昭和19年2月20日7機、21日5機先発隊がテニアン島に進出
夜間戦闘機部隊として編成されたが、夜戦に出動したことは殆ど無く、対潜哨戒、船団護衛、早朝哨戒と言った任務に従事した。

2月23日マリアナ沖を5機で早朝哨戒、索敵中敵機動部隊のグラマン5機と交戦、撃退するも3機を失い、基地上空でグラマン3機と交戦、1機が海上に不時着、操縦員は海岸に泳ぎ着く、また基地への爆撃で残存機半数が爆破される。
 
6月11日米機動部隊マリアナ空襲時には、主力をテニアンに置き、月光20機が地上爆破され、硫黄島から移動してきた補給の月光6機が空襲中にテニアン上空に到着、2機が撃墜された。
 
練成地だった松山航空基地から順次テニアン島に配備されたが、米機動部隊の空襲により消耗を重ね、「あ号作戦」時には殆ど戦力を失っていたという。又米軍のテニアン上陸の際は地上部隊として抵抗戦に参加して玉砕した。
 
第341航空隊
開隊;昭和18年11月15日   
装備機種;紫電
原隊・松山航空基地
「獅」部隊と称され当初より新鋭戦闘機「紫電」を配備する予定であり、また「紫電」を最初に配備した航空隊である。だが開発の遅れから「紫電」が初めて3機配備されたのが19年2月であり、訓練が進まず、整備部隊がロタ島に進出したにもかかわらず、第265航空隊と入れ替えられ、5月5日第61航空戦隊から除かれ、第62航空戦隊所属となり、内地に送られ館山航空基地にて錬成を始める。

「紫電」が充足したのは昭和19年7月のことであった。練成後、台湾、高雄に進出、中国大陸からの米軍機に対する迎激戦に従事する。
 
航空隊開隊時に配備されていた飛行隊は、戦闘401及び戦闘402である、紫電の充足に伴い、戦闘701を加えた3個飛行隊編成となる。
昭和19年10月、台湾沖航空戦に参加して戦力を消耗、その後フィリピン、ルソン島マルコットに進出し、レイテ航空総攻撃に参加、戦力の殆どを失う(残存機「紫電」4機)
 
その後は、「紫電」を使用した高速偵察機部隊として活躍し、また特攻隊の援護機 としても出撃を重ねた。昭和20年1月8日、リンガエン湾上陸船団に対する攻撃に参加し、全機を失う、
 
 
第343航空隊   
開隊;昭和19年1月1日   
装備機種;零戦、
原隊・鹿児島航空基地
「隼」部隊として編成され、昭和19年3月〜5月にテニアン島に進出した。当時の第一航空艦隊の中でも最も有力な航空隊の一つであった。
 
343空は防空任務を担当し、新鋭機「紫電」を装備する予定だったが、生産の遅れから「紫電」はわずか1機が配備されたのみだった。2月「紫電」配備を諦め、零戦による編成に切り替えられたが、基幹要員となる熟練者が1割しか居らず、搭乗員の多くは練習航空隊教程を終了したばかりの甲飛10期生を主体とする若年者が主体であった。(68人中60人)
 
2月のマリアナ空襲により先発した他隊の損害が大きく343空の進出が繰り上げられ、3月27日に第一次12機がテニアンに進出、地上員は4月に輸送され、5月1日に最後の本部要員と第三次進出部隊により全部隊がテニアンに進出した。
 
機数的にはマリアナに進出した第一航空艦隊の部隊の中では有力な部隊であったが、5月25日に発動されたピアク作戦のためパラオ進出が決定。1個中隊を残し、本体はペリリュー島に進出、さらにパラオ本島のアイライ基地の完成と同時に移動してパラオ諸島全島の防空任務に当たった。
 
6月11日、米軍のマリアナ空襲に対して、テニアン残留部隊が迎激戦に参加。その後残存機はガムに移動する。
 
一方パラオ展開の本隊に対して、第一航空艦隊司令部は「あ号作戦」に参加するよう指示、17日一部がヤップ島に前進してテニアン沖の米艦隊攻撃に向う。6月末までサイパン沖の艦船攻撃、迎撃戦闘に参加するが、部隊は壊滅状態となり、幹部搭乗員が失われると生存者は28日アイライ基地に帰還
7月10日解隊となった。
 
第521航空隊
開隊;昭和18年8月15日   
装備機種;艦上爆撃機、陸上爆撃機
原隊・千歳航空基地
「鵬」部隊と称する爆撃隊、豊橋基地で開隊。
当初の装備機は、銀河24機と彗星24機であったが彗星隊は、11月15日第523航空隊開隊に伴い移動、吸収され、銀河90機となる。
 
陸上爆撃機「銀河」を最初に受領し以後も優先的に配備された航空隊、飛行隊長は真珠湾攻撃で艦爆隊を指揮した江草少佐であった。だが搭乗員の多くは練習航空隊を卒業したばかりのものが多く、中心となった実戦経験者の九九艦爆などから移った者たちであり、双発機の一式陸攻出身者は殆どいなかったという
 
この様なことで直に実践に投入できず、4月18日銀河12機がマリアナ諸島に進出、哨戒任務に付く。その後も進出が続くが5月ビクア奪還に派遣を命ぜられ、ハルマヘラに10機進出、16機が残留していたが6月9日の空襲で消耗
「あ号作戦」では銀河がヤップ島から出撃、輸送船団と米空母部隊を攻撃したが全機消滅、一部乗務員と多くの整備員が残留していたガム島も7月21日に米軍の上陸を許し、8月10日には連絡が途絶した。
 
 
第523航空隊
開隊;昭和18年11月5日   
装備機種;彗星艦爆
原隊・美幌航空基地
第521航空隊の艦爆隊が独立、改編されて開隊した航空隊
香取基地にて開隊し、「彗星」艦爆(定数96機)を装備する航空隊として誕生したが、搭乗員の多くが甲飛10期と飛練32期出身者で宇佐空で教育終了した者であった。
 
1944年(昭和19年)2月一部先発隊12機がサイパンに進出、その後テニアン飛行場に転出したが、2月23日のマリアナ諸島空襲に際して黎明攻撃に6機出撃して2機未帰還となる。残存機は基地爆撃で殆ど破壊される。
 
3月、4月に増援として後続部隊が進出。5月末の段階でテニアンに約30機、ペリリュー島に9機進出、一部は本土に残留していた。
6月の「あ」号作戦では米機動部隊及び船団に対して攻撃隊を送り出すが多くが未帰還となった、全体に充足率が低く戦力には物足りなかったと
マリアナ海戦後に19年7月10日解隊
 
 
第761航空隊
開隊;昭和18年7月1日   
装備機種;一式陸攻 九六陸攻
原隊・鹿屋航空基地
「龍」部隊と称する攻撃部隊
昭和19年2月、先発隊39機がマリアナ方面に進出、だが進出直後に米機動部隊のマリアナ襲撃で、2月22日深夜から23日早朝先制攻撃の主力となり戦い、第1〜第2次攻撃隊は、母艦1撃沈、1中破、大型艦3撃沈、夜間戦闘機1機撃墜の戦果をおさめたが、飛行隊長布留川泉大尉の戦死で指揮官機を失った。第3次攻撃隊は戦果も無く壊滅状態となる。この戦いで761空は33機出撃して20機が未帰還となった、

23日早朝からの機動部隊の来襲で基地に残存の陸攻は殆どが地上爆破された。

その後壊滅した第一陣は本土に帰還して再建、第二陣として進出した部隊は一部がペリリュー島に派遣され、サイパン島爆撃とガム島に対する物資投下作戦を行うが、その後ビアク作戦に参加
 
「あ号作戦」では少数のテニアン残留機が参加するが敗戦となる。その後ミンダナオ島ダバオに後退して再建を行う、このとき各航空隊の残存機を編入し、艦上機主体の混成爆撃隊となり10月のフィリピン航空戦に参加、飛行隊は全滅する。
 
 
第1021航空隊   
開隊;昭和19年1月1日   
装備機種;零式輸送機、96陸攻
原隊・香取航空基地
「鳩」部隊と称する輸送部隊
第一航空艦隊編成当初は、輸送機隊と称していたが編成改変して第1021航空隊となる。
昭和19年6月11日米機動部隊の空襲によりテニアン島にいた機は全機が使用不能となり、そのまま陸上戦に移行した。
昭和19年秋から20年1月までフィリピンに進出
その後台湾経由で本土に帰還
昭和20年7月15日第1081海軍航空隊に統合
 
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 2      第62航空戦隊
第62航空戦隊  (昭和19年3月15日) 
 
 
1第141航空隊
開隊;昭和19年3月15日   
装備機種;二式艦偵 月光
原隊・大分航空基地
「暁」部隊と称される偵察航空隊
三重航空基地で開隊と同時に新編成の偵察第3飛行隊と、7月になって新編成された偵察第4飛行隊の2個飛行隊で編成された航空隊。定数は各々24機となっているが保有は各11機にとどまっており定数に達していなかった。
編成後、一航艦、二航艦。二航艦(新編)と短期間で所属が変更された。
 
練成後は、米機動部隊の進行に備えて九州南部から台湾にかけて展開、一部派遣隊をフィリピン、ルソン島方面に派遣した。
 
昭和19年10月台湾沖航空戦に参加後、フィリピン、ニコルス基地に進出し、レイテ作戦に参加した。出撃範囲は広範囲にわたり、マリアナ、ウルシー方面の敵情偵察、米機動部隊の捜索、リンガエン湾周囲の偵察と多方面にわたる。
 
11月15日、戦時編成の改定により偵3は752空に所属が変更、代わりに偵察102飛行隊が153空より編入される。
 
フィリピン戦で戦力を消耗、飛行隊のみが台湾に後退したが、地上員は陸戦隊となって最後まで抵抗戦を実施した。終戦で解隊
 
 
第221航空隊
開隊;昭和19年1月15日   
装備機種;零戦
「嵐」部隊と称する戦闘機部隊
1944年(昭和19年)1月、笠之原基地にて開隊。
2月の東号作戦発令により一部(8機)が香取航空基地に進出。6月の「あ号作戦の際にも一部(16機)が木更津に派遣された。いずれの場合も短期間の派遣であり、米機動部隊の来襲に備えていたが、交戦の機会はなかった。
 
7月10日の大改編により大航空隊編制にすることが決定。指揮下の飛行隊は従来の部隊を再編した戦闘308、戦闘312、戦闘313と追加編入された戦闘407の4個飛行隊(定数:192機)となった。8月、戦闘312は3回に渡って台湾・新竹基地に進出し、防空及び船舶護衛任務に従事する。
 
10月12日、米機動部隊による台湾空襲の折り、戦闘312は邀撃戦を展開。43機で出撃し23機(内、不確実7機)と引き換えに15機が失われた。15日、16日には米機動部隊攻撃に向かった攻撃機隊を護衛し出撃しているが、いずれも大部分は途中で引き返している。
一方、九州に残されている他の飛行隊は14日に台湾に進出した。
 
10月23日、221空4個飛行隊の残存可動機合計60機がフィリピン・ルソン島のアンヘレス基地に進出。進出戦力は戦闘407、戦闘313、戦闘308。
翌日よりルソン東方海域を行動する米機動部隊に対する攻撃に参加。フィリピン航空総攻撃に参加し、米機動部隊やレイテ湾の米艦隊を攻撃、一部はホロ島に前進して、モロタイ島攻撃に参加した。
 
11月、部隊改編が行われ、戦闘308、戦闘312は残留したが戦闘313、戦闘407は203空に転出し、代わりに戦闘303、戦闘304、戦闘315、(戦闘317 ?)が編入され、201空に代わってフィリピン防空戦の主力となって奮戦する。但し、編入された全ての飛行隊が221空の指揮を受けたわけではなく、戦闘303、戦闘304は203空として行動しており、資料によっては戦闘303はこの再編制で201空編入ともされている
 
マニラ空襲からクラーク飛行場襲撃などの迎激戦や、多くの特攻隊の護衛で次第に戦力を消耗し、1945年(昭和20年)1月、フィリピンより後退。飛行機隊は台湾に脱出し、第一航空艦隊の指揮下に編入されるが、地上員は残留部隊として抵抗戦に参加することとなった。
 
後退した戦闘308は館山基地にて252空に編入され、戦闘303、戦闘304、戦闘312は203空に編入(帰隊)
 
第265航空隊   
開隊;昭和18年11月15日   
装備機種;零戦
原隊・松山航空基地
「雷」「狼」部隊と称する戦闘機部隊
基地航空隊として整備完成を急いでいた第一航空艦隊の一翼を担う戦闘機隊の一つとして整備され、松山航空基地で編成され、新竹航空基地にて練成
 
編成定数は当初甲戦常用37機、補用9機であった。12月1日の搭乗員 数は74名と揃っていたが、そのうち69名が甲飛10期生である。ところが人員に対して機材が集まっておらず、訓練に支障があつたものと推定ができる。 
昭和19年2月1日に定数が甲戦用64機補用18機と倍になる。


第61航空戦隊第341航空隊の訓練の遅れから、第61航空戦隊に入れ替えとなり、飛行隊は4月18日新竹航空基地を離れ、輸送機と輸送船を使用してマリアナに進出
昭和19年5月1日香取航空基地を経由して32機がサイパン島に進出したが、6月1日米軍のビアク島上陸に呼応し、奪還するために戦力の大部分がぺリリュー島に移動した。
 
6月10日木更津航空基地で練成を完了した増援隊16機がサイパンに到着、本隊8機カウに進出、同部隊がぺリリュー島に移動している間に6月11日米機動部隊のサイパン空襲が開始され、残留部隊は玉砕した。
 
6月15日香取航空基地で練成を完了した再増援隊が硫黄島に向うが、到着前の空中戦で壊滅
 
ぺリリュー島に在った本隊もミンダナオ島ダバオ飛行場に撤退し、再編作業によりフィリピン防衛航空隊に組み込まれた。265空は第201海軍航空隊に編入され、特攻作戦にも従事した。なおロタ島に派遣された設営隊は孤立し、自活しながら終戦を待った。
 
第322航空隊
開隊;昭和19年3月15日   
装備機種; 月光
原隊・豊橋航空基地
「電」部隊と称する夜戦専門航空隊として香取航空基地で編成された航空隊で、定数24機の月光隊で、装備率は高く22機を保有していた。
 
この航空隊は開隊と同時に特設飛行隊制度が適用された。このとき編成された戦闘飛行隊が戦闘804飛行隊である。322空の部隊呼称「電」部隊の名は航空隊解隊後も戦闘804に引き継がれていく。(戦闘804は141空に転出)
 
厚木空で編成された丙戦(夜戦・「月光」)練成部隊・木更津派遣隊が、厚木空の203空への改編時に302空に配置換えされ、302空夜戦隊の基幹要因となった。その際に木更津派遣隊から株分けして編成されたのが戦闘804であり、322空の基幹となった。(一部搭乗員にはこの際に203空に配置が戻された。)
 
台湾方面を管轄する第六航空基地部隊の主力偵察隊に位置付けられ、順次九州方面に進出している。台湾沖航空戦に参加索敵活動に参加している。
昭和20年1月8日 要員撤退のため一航艦付属に転籍、翌日台湾に撤退を開始
5月8日、一航艦より離脱、台湾駐在のまま南西方面艦隊付属に転籍、陸戦訓練に従事、終戦で解隊。

第341航空隊
開隊;昭和18年11月15日   
装備機種;紫電
原隊・松山航空基地
「獅」部隊と称され当初より新鋭戦闘機「紫電」を配備する予定であり、また「紫電」を最初に配備した航空隊である。だが開発の遅れから「紫電」が初めて3機配備されたのが19年2月であり、訓練が進まず、整備部隊がロタ島に進出したにもかかわらず、第265航空隊と入れ替えられ、5月5日第61航空戦隊から除かれ、第62航空戦隊所属となり、内地に送られ館山航空基地にて錬成を始める。

「紫電」が充足したのは昭和19年7月のことであった。練成後、台湾、高雄に進出、中国大陸からの米軍機に対する迎激戦に従事する。
 
航空隊開隊時に配備されていた飛行隊は、戦闘401及び戦闘402である、紫電の充足に伴い、戦闘701を加えた3個飛行隊編成となる。
昭和19年10月、台湾沖航空戦に参加して戦力を消耗、その後フィリピン、ルソン島マルコットに進出し、レイテ航空総攻撃に参加、戦力の殆どを失う(残存機「紫電」4機)
 
その後は、「紫電」を使用した高速偵察機部隊として活躍し、また特攻隊の援護機 としても出撃を重ねた。昭和20年1月8日、リンガエン湾上陸船団に対する攻撃に参加し、全機を失う、
 
 
第345航空隊
開隊;昭和19年1月15日   
装備機種; 零戦 (紫電)
原隊・松山航空基地
「光』部隊と称され、新鋭局地戦闘機「紫電」を装備する予定であった。鳴尾航空基地で開隊、鳴尾、伊丹の両基地で練成されたが、「紫電」の配備が遅れたため零戦による練成を行った。
ようやく紫電の開発が量産に入り始めたころ紫電によって装備され、ガダルカナルの攻防を中心に展開された
「あ号作戦』には、出撃の機会なく解隊となった。
解隊昭和19年7月10日
 
361航空隊
開隊;昭和19年3月15日
装備機種;零戦
原隊;鹿児島航空基地
 『晃』部隊と称され、新鋭局地戦闘機『紫電』を装備する予定であったが『紫電』の配備が遅れ、零戦による訓練も機数が集まらず自然消滅の形で解隊された。
所属飛行隊は戦闘第四〇七飛行隊(飛行隊長:林 喜重大尉
戦闘407はその後枝分けするように戦闘308(221空)に搭乗員が転属していく。
解隊昭和19710日;
解隊後、戦闘407は221空に編入され、フィリピン航空戦に参加、昭和20年には343空『剣部隊』所属となる)
 
第522航空隊
開隊;昭和19年3月1日   
装備機種;銀河
原隊・豊橋航空基地
『轟』部隊と称する航空隊で、海軍で2番目の陸爆隊となる。
攻撃第406飛行隊(「銀河」装備・定数96機)を持つ航空隊であり、木更津航空基地で開隊した。
 
5月20日の東号作戦には銀河12機を動員して哨戒任務に従事したのが唯一の作戦参加である。「あ号作戦」には投入せずに訓練を重ねた。
 
一本化後は攻撃第406飛行隊に再編され8月上旬の台湾進出を目指したが、機材、人員の調達が不振で、9月11日の「ダバオ誤報事件」を受けた沖縄小録飛行場進出命令が初出撃となった。
 
10月上旬にようやく全機が出水飛行場に進出した。
攻撃第406は、763空に編入になる。
 
 
第524航空隊
開隊;昭和19年3月15日   
装備機種;銀河
原隊・三沢航空基地
暁部隊の称号を持つ海軍で3番目に編成された陸爆隊。
豊橋航空基地で開隊、陸上爆撃機銀河(定数48機)を持つ航空隊だが、常備稼動機数は10機に満たなかった。
 
一本化後は攻撃第405飛行隊に再編され8月上旬の宮崎進出を目指したが、やはり10月上旬出水進出が精一杯だった。
攻撃第405は763空に転出された。
 
 
第541航空隊
開隊;昭和19年3月15日   
装備機種;艦爆
原隊・松山航空基地
『響』部隊と称される。
『彗星』艦爆で編制される予定だったが調達が進まず九九艦爆で錬成していた。
6月の東号作戦には九九艦爆7機、彗星1機を木更津航空基地に派遣している。
 
一本化後は攻撃第3飛行隊に改編。国分基地に進出、鹿屋航空基地に展開する762空の指揮下に入ってT攻撃部隊の一部になる予定が共同訓練もしないまま762空の補助戦力(練度不足部隊)で新設された763空に統合された
 
 
第762航空隊
開隊;昭和19年2月15日   
装備機種;銀河 彗星
原隊・新竹航空基地
「輝」部隊と称する部隊。新竹航空基地で開隊し鹿屋航空基地にて錬成
「あ号作戦」後、器材調達の遅れと搭乗員の練度不足だった各航空隊の戦力を吸収し、大規模航空隊となる。
元々一式陸攻部隊だったが、搭乗員養成が中々進まない為、同様の部隊で練度が不足している攻撃機部隊を手当たり次第にかき集めた結果、大規模部隊となってしまった感があり、なによりも『庇を貸したら母屋を取られた』といった感じで部隊が再編成された航空隊。
 
さらに『丹作戦』用T攻撃部隊として各航空隊から精鋭を集め、準備を進めた。
攻撃第708飛行隊(旧762空)
  『銀河』(定数48機)
攻撃第405飛行隊(旧524空陸爆隊)
  海軍で3番目の陸爆隊。『彗星』装備(定数48機)
  昭和19年7月10日付けで524空より編入
攻撃第406飛行隊(旧522空陸爆隊)
  海軍で2番目の陸爆隊。『彗星』装備(定数48機)
  昭和19年7月10日付けで522空より編入
偵察隊(二式艦偵・彩雲)
上記飛行隊の他に、陸軍航空隊の飛行第七戦隊・飛行第九八戦隊が762空の作戦指揮下にあった。
 
T部隊編成に伴い、哨戒任務として攻撃第703飛行隊が752空から転入される。
またT部隊編成後も作戦決行が決まらない為、正式にT部隊を762空に一本化し、かわりに遅々として実戦投入の目処が立たない旧522空・524空・541空の兵力を新設した763空に移した。
 
昭和19年10月、台湾沖航空戦では『T部隊』を編成し、陸攻隊・陸爆隊・九八戦隊の混成部隊が出撃
昭和20年4月、沖縄航空戦に参加。各飛行隊は特攻隊を編成し、沖縄攻撃・機動部隊攻撃を行った。
終戦で解隊
 
 
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 3      第14航空艦隊から編入された航空戦隊
  昭和19年(1944年)4月、第14航空艦隊は第4艦隊と共に中部太平洋方面艦隊を編成し、テニアン島を拠点として内南洋各地に展開した。すでにトラック、パラオ諸島は空襲のために基地機能は崩壊しており、殆どテニアンに張り付けの状態にあった。2月にマリアナ海戦に備えテニアンに進出した第一航空艦隊増強のため、5月15日稼動戦力の殆どを譲渡し壊滅した。
其の第一航空艦隊に編入された航空部隊が第22及び第26航空戦隊である。
 
 
 4      第22航空戦隊
第22航空戦隊 (昭和19年5月15日)
 
第151航空隊
開隊;昭和18年4月15日   
装備機種;陸偵
原隊・家屋航空基地
海軍初の陸偵専門部隊として編成された航空隊。装備機はこれまでの旧式機九八式陸上偵察機から新型の二式陸上偵察機、二式艦上偵察機、そして陸軍の百式司令部偵察機という異色の組み合わせであった。
 
開隊時にはまだ実用実験中であった二式艦上偵察機と陸軍から回してもらった百式司令部偵察機が主力であった。
 
ラバウルで各部隊から落伍した面々を再編した航空隊で、当初より解散まで内南洋の哨戒活動をしていた。其の守備範囲はラバウルを中心にソロモン諸島から東部ニューギニアまでと広大であり又当時の最大の激戦地であった。
 
 
第202航空隊
開隊;昭和17年11月1日   
装備機種;零戦、艦攻
昭和17年11月1日、第三航空隊を改変してセレベス島ケンダリーで練成にあたる。部隊の一部がチモール島クーパンに派遣された。クーパン分遣隊は昭和18年5月、オーストラリア北岸のダーウィンに進攻し迎撃に上がってきた英空軍のスピットファイアと空戦し圧勝
 
その後ラバウル方面、トラック、ポナペ島などに分遣される。
昭和19年3月〜4月、激しくなる米陸軍のB24夜間空襲に対し、指揮下の零戦隊(戦闘603)は夜間要撃戦を展開している。
 
昭和19年5月、主力部隊が西部ニューギニア、ソロンに進出。ビクア上陸作戦を続ける米軍に対して反撃をする。
その後、6月の「あ」号作戦で米機動部隊と交戦、戦力を消耗してダバオに後退したところで解隊となった。
 
 
第251航空隊   
開隊;昭和17年11月1日 台南航空隊を改変  
装備機種;零戦  月光
ラバウルにおいて消耗しつつあった台南空を改称、消耗した戦力を回復させるために内地に戻り、豊橋で再建にかかる、このとき生還者は10名余であった。
 
昭和18年5月、米軍が本格的に中部ソロモン反攻戦を開始する直前に、ラバウルに再進出、零戦装備の昼間戦闘機部隊と夜間戦闘機月光装備の夜間戦闘部隊の2隊が配備されていた。
 
零戦隊はラバウル航空隊の主力戦闘部隊として、攻勢に転じていた米軍とのソロモン・東ニューギニア方面での戦闘に参加していた。
 
司令の小園安名中佐は、夜間度々ラバウルに来襲する米陸軍のB−17に対抗するため斜め銃を装備した夜間戦闘機月光を考案、配備にこぎつけた。月光はそれなりの戦果を上げていった。
 
9月からは零戦要員は201空や253空へ転属となり、「月光」24機を装備する夜戦専門航空隊となった。しかしその後米軍の攻撃が昼間爆撃に重点を置くようになり、空振りに終わる。
 
昭和19年2月、再び戦力を消耗し、ラバウルを放棄してトラックに後退したが、トラック大空襲により部隊は崩壊した。その後フィリピンに後退し7月に解体となった。
 
解隊後、夜戦飛行隊(戦闘901)はダバオに展開していた153空に編入され、一部の搭乗員は内地に帰還、戦闘851や302空に転勤、約半数の現地残留搭乗員は、乙航空隊の東カロリン航空隊に編入された。
 
 
第253航空隊   
開隊;昭和17年11月15日   
装備機種;零戦
原隊・築城航空基地
鹿屋航空戦闘機隊を基幹戦力としてニューアイルランド島カビエンで開隊し、ラバウルに進出、昭和18年5月、東部ニューギニア・ソロモン航空戦に参加し、戦力を消耗してサイパンに後退再建する。
 
9月に再びラバウルに進出、翌年2月まで迎撃作戦に従事し多くの戦果を報告している。253空は先に撤退していった航空隊の人員、器材を受け入れながら任務を続行していた。
 
昭和19年2月17〜18日トラック大空襲後20日に搭乗員、司令部要員はトラックに後退した。253空の撤退により、事実上ラバウル航空隊の活動は終了した。
 
トラック島に撤退後は、補充が受けられない中度重なる空襲の迎激戦で戦力を殆ど失った。6月残存戦力がグァム島に撤退したところ着陸寸前に米機動部隊の空襲を受け、全機壊滅となった。 7月10日解隊
 
 
第301航空隊   
開隊;昭和19年1月1日   
装備機種;雷電、零戦、
原隊・茂原航空基地
新鋭局地戦闘機「雷電」を装備する戦闘第601飛行隊と零戦を装備する戦闘第316飛行隊の2個飛行隊で編成された航空隊である。
 
「雷電」を装備する戦闘601は、配備間もない「雷電」の初期不良に悩ませられつつも実戦配備を進めるが、最終的には第一航空艦隊の指示した期日までにマリアナへの展開に間に合わないと判断して全機零戦に変更して進出することになる。
 
一方零戦装備の戦闘316は、夜間襲撃部隊として編成され、訓練も対戦闘機用の空戦訓練ではなく、夜間進攻による銃爆撃攻撃に重点をおいたものであり、むしろ攻撃飛行隊に近かった。
 
対重爆迎撃を主任務として訓練してきた戦闘601の「雷電」隊が対戦闘機戦に苦手なため、其の援護として零戦隊である戦闘316に期待していたのであるが、両者の合わない意見対立は、結局戦闘316の302空夜戦隊への転出という形で決着を見た。
 
昭和18年6月、先発隊18機がマリアナ諸島テニアン等に進出したが、11日の米機動部隊の襲撃の際の迎撃戦に出撃して全滅した。
 
6月中旬、硫黄島まで進出した後続部隊も、15日の米機動部隊の迎激戦の際に出撃してほぼ全滅に近い被害を受ける。(残存機1機のみ)
 
残った後続部隊(本隊)も硫黄島まで進出した際に7月3日、4日の2日間の迎激戦で全滅し、何一つ戦果を上げることなく部隊は壊滅した。
301空解隊後、戦闘316は、252空に転出され再建される。
 
 
第503航空隊
開隊;昭和18年10月1日   
装備機種;艦上爆撃機、
原隊・木更津航空基地
当初より彗星艦爆を装備した航空隊として新編成、南東方面で作戦行動中の582空と交替すべく編成していたが、機数が整わないうちに582空が戦力を消耗して501空に吸収解隊となった。
 
進出可能になったのは昭和19年2月末(米機動部隊によるトラック空襲後)であり、2月22日硫黄島に彗星36機進出。3月にサイパン島に進出、25日エニウェトク環礁の米機動部隊を彗星30機で攻撃、9機を失い戦果なし
 
その後特設飛行隊制度の導入により、飛行隊は攻撃107へと改編された。
4月16日トラック空襲に迎撃、3号爆弾でB-24 3機を撃墜、4月下旬本隊16機グァム島に帰還、トラック分遣隊3機残存
以後マリアナ、パラオに分散し、哨戒任務に従事
 
「あ」号作戦計画発動によりトラック島に進出、その後主力は西部ニューギニア、ソロンに進出したが、米機動部隊のマリアナ進攻に伴いグァム島とヤップ島に移動、米機動部隊に攻撃を行い一挙に戦力を消耗。昭和19年7月10日、航空隊改編時に解隊となった。グァム島に残留を余儀なくされた地上要員の多くは地上戦で玉砕を強いられた。
 
 
第551航空隊
開隊;昭和18年9月1日   
装備機種;艦上攻撃機、
原隊・元山航空基地
元山航空基地にて開隊、機体、搭乗員は第331航空隊攻撃隊を分離独立。艦上攻撃機を装備、スマトラ島コタラジャ飛行場に進駐、装備機定数48機に対し充足率は低く24機で訓練を開始
 
昭和19年1月31日、天山26機を輸送船でトラックに輸送、飛行長は単独飛行で合流
2月17日のトラック空襲で18機を喪失、9機テニアンに脱出、翌日トラック空襲にテニアンより6機出撃して4機を失う。
 
3月4日、攻撃第251飛行隊に改編、第582航空隊解散に伴い九七艦攻6機編入、4月コタラジャを撤退、九七艦爆5機をトラックに移転、
4月30日のトラック空襲で航空戦で天山4機、九七艦攻6機を失い残存艦攻1機となる。
 
6月1日、第一航空艦隊第22航空戦隊に編入、天山11機、九七艦攻1機トラック島に集結。
 
6月15日、「あ号作戦」に参加天山全機で雷撃、19日まで連日出撃全機を失う、グァム残存要員は、他の部隊が破損放置した月光を修理、トラックまで飛行して本隊と合流したが、7月10日解隊。
 
 
 
第755航空隊
開隊;昭和17年7月1日   
装備機種;一式陸攻
原隊・元山航空基地
元山航空隊が改変し、(戦闘機隊は分離独立252空と改称)クェゼリン環礁ルオット飛行場に進出、一部ヤルート環礁タロア飛行場に駐留。以後マーシャル諸島、ギルバート諸島の哨戒に従事
 
昭和18年
2月18日、解散した第701航空隊より機体委譲
3月25日、4月21日のナウル空襲で18機を失う。
8月27日、中攻から一式陸攻に換装開始、5機調達
11月20日、ギルバート諸島に米機動部隊接近、全機で迎撃(ギルバート諸島沖航空戦)2日間の戦闘で40機中29機を失い戦果なし
11月25日タワラ島陥落、755タワラ基地要員も玉砕
12月テニアン島に撤退して再建に着手(テニアン10機、トラック6機)
 
昭和19年
1月1日22航戦は第4艦隊に転籍
1月30日 クェゼリン環礁上陸に呼応して12機進出
2月2日、802空、753空と共同でマーシャル諸島残留基地要員の救出活動に従事
2月17日 トラック島大空襲、駐留機全損
2月23日 テニアン島大空襲 残存機5機に激減
3月4日、飛行隊の空地分離が発令。751空及び755空の基幹員を中心に攻撃第701飛行隊を、練成員を中心に攻撃第704飛行隊を編成
旧705空(陸攻隊)が攻撃第706飛行隊となり、転入される。
第14航空艦隊新編成に伴い22航戦はこれに編入
5月5日 14艦隊の航空機全機を第一航空艦隊に委譲、22航空戦隊は解散、各隊は第一航空艦隊直轄に改編
 
6月「あ」号作戦に参加するも戦力の消耗甚だしく、作戦後グァムで解隊、地上員は同島で玉砕
 
 
第802航空隊
開隊;昭和17年11月1日   
装備機種;二式飛行艇 二式水上戦闘機
原隊・横浜航空基地
横浜海軍航空隊を改称、常設隊が2個しかなく、飛行艇部隊を補完すべく唯一臨時に編成された飛行部隊
 
編成が遅れた分二式水戦を当初から導入することが出来た。勢力圏の再東端ヤルートまで進出、ソロモンに補充隊を送り一方ギルバートを含む最前線を哨戒した。
 
昭和19年4月1日、「あ」号作戦で飛行艇に割り当てる物資も、人員も確保しにくく、実践に向かないので内地に送還、本土近海の哨戒活動に充てるため801空に編入
 
 
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 5      第26航空戦隊
第26航空戦隊 (昭和19年5月15日)
 
第201航空隊
開隊;昭和17年12月1日   
装備機種;零戦
原隊・木更津航空基地
703空(旧千歳空)及び752空の戦闘機隊を主体として編成された航空隊であり、マーシャル諸島ルオット島で開隊した。飛行隊はウェーク島(2個分隊)、タロア島、ルオット島に分散配備されたが、空戦の機会は無く、殆ど上空哨戒と練成に当っていた。
 
昭和18年(1943年)2月、本土帰還の命令が発せられ、飛行機を現地に置いたまま本土帰還。木更津基地、そして松島基地へと移り再編制と練成に入る。
 
5月、北方方面の戦局により米軍のアッツ島進攻に応じる為に24航戦が12航艦編入を命ぜられ、6月3日に零戦12機を北千島・幌筵島に派遣する。だが間もなく復帰が命ぜられ、そして南東方面進出を命ぜられた。
 
機材を552空の艦爆と共に空母「雲鷹」に乗せ輸送(人員は特設巡洋艦『愛国丸』)。一部は陸攻に誘導されての太平洋縦断コースでの飛行進撃を果たした。
 
昭和18年9月15日、にラバウルに進出した201空は翌日には一部をブインに派遣し受け入れ準備を進め、17日以降ブイン、ブカの両基地に飛行隊を進出させ、以後ブイン基地を中心とする邀撃戦を行った。
 
10月8日以降、ブインに進出し協同で防空に当っていた204空が後退すると26航戦司令部もラバウルに後退。以後は201空のみで防空を担当する。だが戦力の消耗が激しく、10月末には201空もラバウルに後退。機材補充と再編制を行うが翌年1月にはサイパン島まで後退する。(飛行機はラバウルに残し、人員のみの後退)
この時期のラバウル航空戦における201空の戦果は敵機450機以上(日本側判断による)に上る。
 
サイパンに後退後、本土からの補充機を引き連れて8機がトラック島に進出するがトラック空襲により全滅。救援機20機を空襲翌日(2月18日)にトラック島に送るも会敵せず、逆にサイパン残留の4機がサイパン空襲により消失した。
 
201空は再びサイパンに後退。ラバウル放棄と航空隊の大規模再編制に伴い解隊された204空を吸収し、定数96機(3月4日付:戦闘305、戦闘306の2個飛行隊体制)の大規模航空隊に再編制される。グアム島経由でパラオ諸島ペリリュー島に移動し、一部をダバオ派遣隊として分派したが、3月30日の米機動部隊による空襲により奇襲され本隊(戦闘305)は壊滅状態(全機損失)となった。
 
一方、再編制により本土・木更津基地で編制途中であった戦闘306は練成後の4月中旬からフィリピンのセブ、ダバオ両基地にに進出し、残されていたダバオ派遣隊と合流する。
 
5月中旬には全戦力(32機)がセブ基地に集中して訓練に入るが、『あ号作戦』発動により一部がペリリュー経由でヤップ島に前進。他の一部はグアム島に進出する。
 
作戦後、グアム派遣隊は7月初旬にセブ基地に帰還。7月10日付けの大規模再編制で解隊となった263空、343空の一部搭乗員で部隊を編成。菅野大尉の指揮下でヤップ島に進出させている。他に戦闘311(153空から転入)や戦闘301(202空(7月10日付で解隊)より転入)が編入された。
 
これは今後フィリピンが主戦場なることを見越し、同地での航空戦を担当する1航艦の戦闘機戦力を集中配備させた大規模航空隊であった。兵力は4個飛行隊(戦闘301、戦闘305、戦闘306、戦闘311)、定数192機であった。
 
8月、ダバオは米陸軍航空隊B-24の空襲に曝され、9月以降はP-38を含む戦爆連合により空襲が激化。飛行隊をダバオに常駐させることが出来なくなり、戦力温存と捷号作戦待機の為、セブ、レガスピー、ニコルスに分散させることとなる。この頃、米機動部隊に対する攻撃手段として跳飛爆撃を採用し、爆装零戦の準備を進めた。だがこれらの準備も9月9日のダバオ空襲と、それに続くダバオ事件に端を発した一連の誤報騒動によりセブ島に終結した飛行隊(約100機)が米艦上機群の波状攻撃を受け壊滅。9月12日、13日の2日で201空は深刻な打撃(ほぼ壊滅状態)となった。
 
この後戦闘301、戦闘311は本土での再建に着手し、残存戦力は米機動部隊との交戦。挺身隊を編制し機動部隊攻撃を行ない、消耗戦を繰り広げる。
 
10月19日、1航艦長官に大西中将が赴任。そして最初の特攻隊(神風特別攻撃隊)が編成された。翌20日、米軍のレイテ島上陸が開始。25日には指揮官関行男大尉以下5名による神風特攻隊「敷島隊」による特攻攻撃が行われ、米護衛空母「セントロー」撃沈、同「キトカンベイ」大破といった戦果を上げる。これが以後果てしなく続くこととなる最初の神風特攻隊の最初の攻撃であり、201空だけでも200名以上の特攻隊員が出撃していった。
 
昭和20年1月、1航艦のフィリピン脱出、台湾後退により201空も一部搭乗員が脱出を行う。残された地上員達は二六航戦の指揮下で地上戦の準備に入り、クラーク地区防衛隊として地上戦に投入された。一方脱出した搭乗員は台湾で再編制、一部の搭乗員が他の航空隊(205空・他)に転入したが、残された搭乗員達は陸戦訓練に従事することとなった。
 
201空は書類上は終戦まで残されたが、沖縄戦以降は機材の無い名前だけの航空隊となっていた。
 
 
 
第501航空隊
開隊;昭和18年7月1日   
装備機種;艦上爆撃機、(零戦)
原隊・松島航空基地
正式採用前の「彗星艦爆(十三試艦爆)を装備した航空隊
木更津基地で練成後、太平洋横断コースで、昭和18年10月以降順次ラバウルに移動、展開した。
 
昭和19年2月、消耗の激しい582空を吸収する形で組み込んだが、その際装備機であった九九艦爆は、零戦へと改編され、2個飛行隊体制となり、トラック島で練成にあたる。だが米機動部隊によるトラック島空襲で戦力を消耗した。
 
翌3月航空隊改編に伴い、552空を吸収合併、合わせて特設飛行隊制度を取り入れ、零戦隊が戦闘351を、艦爆隊が攻撃105を編成した。
 
再編後、パラオ及びダバオで練成を開始したが、3月20日の米機動部隊によるパラオ空襲で再び戦力を消耗する。そのため6月の「あ」号作戦時には戦力が整わず、翌7月航空隊改編時に解隊となった。
 
 
第751航空隊
開隊;昭和17年11月1日 、
装備機種;一式陸攻
原隊・鹿屋航空基地
鹿屋航空隊が戦闘機部隊を第253航空隊として分離し、第751航空隊に改編陸攻専門部隊となった。
改称後にニューアイルランド島カビエンの進出、ソロモン航空戦に参加するが戦力を消耗したため一時テニアン島に後退して再建。
昭和18年9月、再びラバウルに進出し、ブーゲンビル島ブインを基地としてソロモン航空戦に参加、戦力を消耗
 
昭和19年2月、戦力回復のため後退していたテニアンで米機動部隊の空襲を受け再び戦力を消耗する。
3月4日、飛行隊の空地分離が発令。751空及び755空の基幹員を中心に攻撃第701飛行隊を、練成員を中心に攻撃第704飛行隊を編成
6月「あ」号作戦で戦力を消耗、7月航空部隊再編により解隊となる。
 
 
 
 
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Last updated: 2011/4/2