第22航空戦隊 (昭和19年5月15日)
第151航空隊
開隊;昭和18年4月15日
装備機種;陸偵
原隊・家屋航空基地
海軍初の陸偵専門部隊として編成された航空隊。装備機はこれまでの旧式機九八式陸上偵察機から新型の二式陸上偵察機、二式艦上偵察機、そして陸軍の百式司令部偵察機という異色の組み合わせであった。
開隊時にはまだ実用実験中であった二式艦上偵察機と陸軍から回してもらった百式司令部偵察機が主力であった。
ラバウルで各部隊から落伍した面々を再編した航空隊で、当初より解散まで内南洋の哨戒活動をしていた。其の守備範囲はラバウルを中心にソロモン諸島から東部ニューギニアまでと広大であり又当時の最大の激戦地であった。
第202航空隊
開隊;昭和17年11月1日
装備機種;零戦、艦攻
昭和17年11月1日、第三航空隊を改変してセレベス島ケンダリーで練成にあたる。部隊の一部がチモール島クーパンに派遣された。クーパン分遣隊は昭和18年5月、オーストラリア北岸のダーウィンに進攻し迎撃に上がってきた英空軍のスピットファイアと空戦し圧勝
その後ラバウル方面、トラック、ポナペ島などに分遣される。
昭和19年3月〜4月、激しくなる米陸軍のB24夜間空襲に対し、指揮下の零戦隊(戦闘603)は夜間要撃戦を展開している。
昭和19年5月、主力部隊が西部ニューギニア、ソロンに進出。ビクア上陸作戦を続ける米軍に対して反撃をする。
その後、6月の「あ」号作戦で米機動部隊と交戦、戦力を消耗してダバオに後退したところで解隊となった。
第251航空隊
開隊;昭和17年11月1日 台南航空隊を改変
装備機種;零戦 月光
ラバウルにおいて消耗しつつあった台南空を改称、消耗した戦力を回復させるために内地に戻り、豊橋で再建にかかる、このとき生還者は10名余であった。
昭和18年5月、米軍が本格的に中部ソロモン反攻戦を開始する直前に、ラバウルに再進出、零戦装備の昼間戦闘機部隊と夜間戦闘機月光装備の夜間戦闘部隊の2隊が配備されていた。
零戦隊はラバウル航空隊の主力戦闘部隊として、攻勢に転じていた米軍とのソロモン・東ニューギニア方面での戦闘に参加していた。
司令の小園安名中佐は、夜間度々ラバウルに来襲する米陸軍のB−17に対抗するため斜め銃を装備した夜間戦闘機月光を考案、配備にこぎつけた。月光はそれなりの戦果を上げていった。
9月からは零戦要員は201空や253空へ転属となり、「月光」24機を装備する夜戦専門航空隊となった。しかしその後米軍の攻撃が昼間爆撃に重点を置くようになり、空振りに終わる。
昭和19年2月、再び戦力を消耗し、ラバウルを放棄してトラックに後退したが、トラック大空襲により部隊は崩壊した。その後フィリピンに後退し7月に解体となった。
解隊後、夜戦飛行隊(戦闘901)はダバオに展開していた153空に編入され、一部の搭乗員は内地に帰還、戦闘851や302空に転勤、約半数の現地残留搭乗員は、乙航空隊の東カロリン航空隊に編入された。
第253航空隊
開隊;昭和17年11月15日
装備機種;零戦
原隊・築城航空基地
鹿屋航空戦闘機隊を基幹戦力としてニューアイルランド島カビエンで開隊し、ラバウルに進出、昭和18年5月、東部ニューギニア・ソロモン航空戦に参加し、戦力を消耗してサイパンに後退再建する。
9月に再びラバウルに進出、翌年2月まで迎撃作戦に従事し多くの戦果を報告している。253空は先に撤退していった航空隊の人員、器材を受け入れながら任務を続行していた。
昭和19年2月17〜18日トラック大空襲後20日に搭乗員、司令部要員はトラックに後退した。253空の撤退により、事実上ラバウル航空隊の活動は終了した。
トラック島に撤退後は、補充が受けられない中度重なる空襲の迎激戦で戦力を殆ど失った。6月残存戦力がグァム島に撤退したところ着陸寸前に米機動部隊の空襲を受け、全機壊滅となった。 7月10日解隊
第301航空隊
開隊;昭和19年1月1日
装備機種;雷電、零戦、
原隊・茂原航空基地
新鋭局地戦闘機「雷電」を装備する戦闘第601飛行隊と零戦を装備する戦闘第316飛行隊の2個飛行隊で編成された航空隊である。
「雷電」を装備する戦闘601は、配備間もない「雷電」の初期不良に悩ませられつつも実戦配備を進めるが、最終的には第一航空艦隊の指示した期日までにマリアナへの展開に間に合わないと判断して全機零戦に変更して進出することになる。
一方零戦装備の戦闘316は、夜間襲撃部隊として編成され、訓練も対戦闘機用の空戦訓練ではなく、夜間進攻による銃爆撃攻撃に重点をおいたものであり、むしろ攻撃飛行隊に近かった。
対重爆迎撃を主任務として訓練してきた戦闘601の「雷電」隊が対戦闘機戦に苦手なため、其の援護として零戦隊である戦闘316に期待していたのであるが、両者の合わない意見対立は、結局戦闘316の302空夜戦隊への転出という形で決着を見た。
昭和18年6月、先発隊18機がマリアナ諸島テニアン等に進出したが、11日の米機動部隊の襲撃の際の迎撃戦に出撃して全滅した。
6月中旬、硫黄島まで進出した後続部隊も、15日の米機動部隊の迎激戦の際に出撃してほぼ全滅に近い被害を受ける。(残存機1機のみ)
残った後続部隊(本隊)も硫黄島まで進出した際に7月3日、4日の2日間の迎激戦で全滅し、何一つ戦果を上げることなく部隊は壊滅した。
301空解隊後、戦闘316は、252空に転出され再建される。
第503航空隊
開隊;昭和18年10月1日
装備機種;艦上爆撃機、
原隊・木更津航空基地
当初より彗星艦爆を装備した航空隊として新編成、南東方面で作戦行動中の582空と交替すべく編成していたが、機数が整わないうちに582空が戦力を消耗して501空に吸収解隊となった。
進出可能になったのは昭和19年2月末(米機動部隊によるトラック空襲後)であり、2月22日硫黄島に彗星36機進出。3月にサイパン島に進出、25日エニウェトク環礁の米機動部隊を彗星30機で攻撃、9機を失い戦果なし
その後特設飛行隊制度の導入により、飛行隊は攻撃107へと改編された。
4月16日トラック空襲に迎撃、3号爆弾でB-24 3機を撃墜、4月下旬本隊16機グァム島に帰還、トラック分遣隊3機残存
以後マリアナ、パラオに分散し、哨戒任務に従事
「あ」号作戦計画発動によりトラック島に進出、その後主力は西部ニューギニア、ソロンに進出したが、米機動部隊のマリアナ進攻に伴いグァム島とヤップ島に移動、米機動部隊に攻撃を行い一挙に戦力を消耗。昭和19年7月10日、航空隊改編時に解隊となった。グァム島に残留を余儀なくされた地上要員の多くは地上戦で玉砕を強いられた。
第551航空隊
開隊;昭和18年9月1日
装備機種;艦上攻撃機、
原隊・元山航空基地
元山航空基地にて開隊、機体、搭乗員は第331航空隊攻撃隊を分離独立。艦上攻撃機を装備、スマトラ島コタラジャ飛行場に進駐、装備機定数48機に対し充足率は低く24機で訓練を開始
昭和19年1月31日、天山26機を輸送船でトラックに輸送、飛行長は単独飛行で合流
2月17日のトラック空襲で18機を喪失、9機テニアンに脱出、翌日トラック空襲にテニアンより6機出撃して4機を失う。
3月4日、攻撃第251飛行隊に改編、第582航空隊解散に伴い九七艦攻6機編入、4月コタラジャを撤退、九七艦爆5機をトラックに移転、
4月30日のトラック空襲で航空戦で天山4機、九七艦攻6機を失い残存艦攻1機となる。
6月1日、第一航空艦隊第22航空戦隊に編入、天山11機、九七艦攻1機トラック島に集結。
6月15日、「あ号作戦」に参加天山全機で雷撃、19日まで連日出撃全機を失う、グァム残存要員は、他の部隊が破損放置した月光を修理、トラックまで飛行して本隊と合流したが、7月10日解隊。
第755航空隊
開隊;昭和17年7月1日
装備機種;一式陸攻
原隊・元山航空基地
元山航空隊が改変し、(戦闘機隊は分離独立252空と改称)クェゼリン環礁ルオット飛行場に進出、一部ヤルート環礁タロア飛行場に駐留。以後マーシャル諸島、ギルバート諸島の哨戒に従事
昭和18年
2月18日、解散した第701航空隊より機体委譲
3月25日、4月21日のナウル空襲で18機を失う。
8月27日、中攻から一式陸攻に換装開始、5機調達
11月20日、ギルバート諸島に米機動部隊接近、全機で迎撃(ギルバート諸島沖航空戦)2日間の戦闘で40機中29機を失い戦果なし
11月25日タワラ島陥落、755タワラ基地要員も玉砕
12月テニアン島に撤退して再建に着手(テニアン10機、トラック6機)
昭和19年
1月1日22航戦は第4艦隊に転籍
1月30日 クェゼリン環礁上陸に呼応して12機進出
2月2日、802空、753空と共同でマーシャル諸島残留基地要員の救出活動に従事
2月17日 トラック島大空襲、駐留機全損
2月23日 テニアン島大空襲 残存機5機に激減
3月4日、飛行隊の空地分離が発令。751空及び755空の基幹員を中心に攻撃第701飛行隊を、練成員を中心に攻撃第704飛行隊を編成
旧705空(陸攻隊)が攻撃第706飛行隊となり、転入される。
第14航空艦隊新編成に伴い22航戦はこれに編入
5月5日 14艦隊の航空機全機を第一航空艦隊に委譲、22航空戦隊は解散、各隊は第一航空艦隊直轄に改編
6月「あ」号作戦に参加するも戦力の消耗甚だしく、作戦後グァムで解隊、地上員は同島で玉砕
第802航空隊
開隊;昭和17年11月1日
装備機種;二式飛行艇 二式水上戦闘機
原隊・横浜航空基地
横浜海軍航空隊を改称、常設隊が2個しかなく、飛行艇部隊を補完すべく唯一臨時に編成された飛行部隊
編成が遅れた分二式水戦を当初から導入することが出来た。勢力圏の再東端ヤルートまで進出、ソロモンに補充隊を送り一方ギルバートを含む最前線を哨戒した。
昭和19年4月1日、「あ」号作戦で飛行艇に割り当てる物資も、人員も確保しにくく、実践に向かないので内地に送還、本土近海の哨戒活動に充てるため801空に編入
|