幻の航空通信聯隊

11      幹部候補生いじめが始まる                    、
 
 6月中旬幹部候補生の採用試験があった。軍事訓練は練兵場で中隊付きの少尉殿が行う。徒歩から小銃の扱い、分隊編成をして分隊の指揮、戦闘訓練まで、学生時代軍事訓練は県下1の猛訓練を5年間受けていたのでさほどの感じではなかった。唯実弾射撃の訓練経験者は小生を含め5人しかなかった。
 
 学科は通信講堂で1時間ほどで終わる。軍人勅語、歩兵操典から出題、通信は略号が出題された。受験者は新兵の約半数近くが該当しており受験した。合格発表は7月との事だったが、内務版ではこの該当者が解ったので、意地の悪い兵長2人が目をつけ幹部候補生と呼んでいじめを始めた。
 
 この兵長は、少年飛行兵上がりでいつも下士官室で飛行服を着て威張っている18歳ぐらいの兵長、も一人は下士志願出の意地の悪そうな顔をした兵長、この兵長が週番になったときは大変だ、お前たちは来月から2中隊に行き、半年で見習士官だ、今のうちに鍛えてやる。と宣言をした。
 
 夜就寝して10分位すると、「幹部候補生、武装して玄関前に集合!」の伝達をだす。帯剣を付け小銃を持って玄関前に集合すると、兵長が、これから駆け足訓練をする、と営門を出て、明野航空隊の滑走路を回り中隊に帰り、「訓練終わり解散!」夜中に武装しての駆け足、皆へとへとだ!
 
 ある夜、就寝の直後平野班長殿より呼び出しがある。簡単な雑用が言い付かる。始めると「幹部候補生、武装して集合」の伝達、班長殿は[お前はいいんだ、仕事を続けて]と言われる。50分ぐらいして皆帰ってくると「帰って寝なさい」と言われる。班長殿は今夜幹部候補生を呼び出すのを知っていて、わざと用事を言いつけ外してくれたのだ、有り難い。それから就寝時に何回か用事を言いつけられる度に駆け足があった。
 
 
12      米軍の攻撃は激しくなり聯隊が爆撃を受ける         、
 
 米軍は硫黄島攻撃に先立ち、太平洋上の機動部隊から関東上空の制空戦に出た、昭和20年2月12日早朝から関東上空は、米軍艦載機の猛攻撃が始まり、以後断絶的な攻撃に悩まされ、一般住民も巻き添えになり被害が多く出ていた。この様なことから米軍艦載機の攻撃についての知識や経験は入隊前に可也付いていた。
 
敵艦載機の攻撃を受ける。
  第七航空通信聯隊に入隊した4月には、ここ伊勢周辺は、B29の爆撃は何回も経験しているが艦載機の襲撃は未だ無かった。したがって聯隊の将兵の大部分は艦載機の襲撃の経験が無かった。硫黄島の攻撃を完了した米軍機動部隊はやがて関西、中部地区も襲撃してきた。
 空襲警報が発令され艦載機の襲撃が知らされた。
  7中隊では、全員集合が係り、小銃弾が1人5発ずつ配られ邀撃体制に入った。中隊長が不在で、中隊付き少尉殿が指揮を執る、軍刀を抜いて「逃げたらぶった切るぞ」といった。皆小銃に銃弾を込め物陰に入り射撃命令を待つ。練兵場の東の空からグラマンF4U 3機が機銃掃射をしながら頭上を通過、少尉殿は「退避!退避!」と怒鳴りながら防空壕に飛び込んだ。
 
 小生は敵機が真正面に向かっていなければ安全と考えていたので、物陰から上空のグラマンの様子を報告していると「早く壕に入れ!」と怒鳴られる、銃撃できずに残念だと思いながら防空壕に入る。グラマンは旋回して機銃掃射を繰り返す。1時間ぐらいは防空壕に缶詰、この様な艦載機の襲撃が度重なってくる。
 
聯隊が爆撃される。
  6月下旬の朝、通信訓練に出かけようとすると、空襲警報が発令され退避命令が出る。防空壕に退避していると、やがてB29の爆音が頭上聞こえ、ドカーンと爆弾の炸裂する音が数発、地響きを立てる。B29の爆音が去るのを待って防空壕を飛び出して見ると、7中隊の兵舎が爆煙の中に木っ端微塵になっている。
 
 周りを見ると6中隊も木っ端微塵、炊事場と入浴場もやられた。炊事場は火災が発生したがすぐに消火された。練兵場には直径10mぐらいの大きな穴が2箇所開いている。8発の爆弾が落とされ6中隊と、7中隊に各2発、炊事場、浴場に1発ずつ命中したのだ。聯兵場に出て周囲を見ると、鈴鹿や伊勢神宮の山々に数箇所の黒煙が上がっている。この火災は夕方まで続いた。
 
聯隊長より復旧命令が出る。
  聯隊長より直ちに復旧工事をせよ、明日B29の偵察機が飛来するまでに、建物は外観を復旧、練兵場の爆撃跡は埋めたて芝を張り、爆撃の痕跡を残すな。と言う命令が出た。
 
 材料廠と航技中隊はトラックを総出動して、爆撃された兵舎は直ちに片付け始める。中隊員も総出動で夕方までには綺麗に片付いた。そして柱や梁などの等の材料がトラックでどんどん運び込まれる、もう既に切り込んである。
 
 7中隊隊員は、前の5中隊に間借りして夜を過ごしたが、炊事場が爆撃されて食事は出来ずに昼抜き、夜食に乾パンが支給される。乾パンと水で飢えを凌ぎ就寝する。明朝起床ラッパで目を覚まし、寝具を整理して外を見て驚いた、7中隊の兵舎は昨夜のうちに建てられ、屋根の瓦は葺かれ、外壁を取り付けて居る所だった。やがて窓枠が搬入されてはめられた。規格が決っているので在庫があったのだろうか?
 
 何時ものパターンで午前11時ごろB29が1機が偵察に飛来した。しかし上空から見る限り、爆撃の痕跡は見えない。偵察機が去った後、材料廠と航技中隊は総動員で兵舎内の床張りや総ての工事が急スピードで施工され、寝台、机なども搬入、破壊紛失した下着、靴、小銃、帯剣等総てが整う。何たる早業であろう、さすがは軍隊、神業のようだと驚いた事は未だに脳裏に刻み込まれている。
 
 
13      転属命令が出る。                         、
 
 6月の下旬に1期の検閲が終わり、B29の爆撃と艦載機の襲撃に明け暮れているとき7月7日の七夕を迎えた。朝食がすむと班長殿から4人が呼ばれた。週番士官室に行くように命令されたので1階の士官室に行くと、入隊のとき引率してくれた上等兵殿と隣の班の二等兵と新兵3人が居た。
 
 週番仕官より全員の名前が呼ばれ、上等兵以下8名の者に風第29669部隊に転属命令が出された。
 
 人事係りの准尉殿からは、皆とはこれでお別れだ、3ヶ月間良く訓練を受けてくれた、戦隊に行っても健康に注意して軍務に励んでくれ、と別れの挨拶を頂き、班に帰る。班長殿に報告して出発の準備をする。同級生の戦友は東京に行くんだ、家に近くなりよいね、と寂しそうに支度を手伝ってくれる。雑嚢に日用品の私物と弁当、水筒に水を入れ肩に掛け帯剣をつけ玄関前に整列、週番仕官と班長殿に挨拶して七中隊を後にする。
 
 営門を出て振り返れば、再び見ることは出来ないであろう第七航空通信聯隊、此の時点では幹部候補生の合格も未発表で聞かれず、ましてや4月15日聯隊の解散命令が出ている等とは夢にも知らず、東京の多摩陸軍技術研究所(風第29669部隊)へと向かった。
 
 
14      その後の第七航空通信聯隊解散命令                   、
 
 戦後間もなく再会した同級生の戦友の話では、7月中旬、幹部候補生の合格発表があり七中隊では受験者全員が合格、直ちに2中隊に移った。しかし聯隊解散の話が流れ何事か理解が出来ず動揺が見られ、訓練も余り無く終戦を迎えた。そして9月上旬に除隊となり帰郷したとの事
 
 聯隊の解散、小生も話を聞いて不思議に思っていた、
航空通信隊は航空部隊の目や耳、口と同じで。情報の収集、伝達、部隊間や航空機との連絡など重要な任務を持ち、通信機能が麻痺すると航空部隊は盲人同様の部隊になってしまう。したがって前線では作戦上一番の攻撃目標にされて戦死者が多く航空通信兵は可也不足していた。このような時に解散とは?
 
 しかし、今考えると合点が行く。此の聯隊が新設された当時は、空から攻撃された場合の防御が全く考えられずに設計建設されたもので、連日のように空襲、退避が繰り返されていたのでは、本来の教育訓練の機能を失ってしまうのだ、太平洋戦争の末期の此の聯隊はまさにこのような状況になっていた。
 
 昭和20年の春、既に日本軍の最前線と言われた硫黄島での決戦で破れ、2万余の将兵を失い、続いて本土防衛の最前線沖縄では大激戦が続いている。6月8日大本営は御前会議で本土決戦と基本方針を決定したが、6月23日遂に沖縄戦線は島民も巻き込み19万人の犠牲者を出し、日本軍第32軍の壊滅で終了した。
 
 次は本州か、四国か、九州かと言うとき、教育機能が無くなった訓練部隊は、本土決戦部隊に切変えなければと考えるのが当然だ、そこで6月25日解散命令が出たのかも、解散して0にすることは考えられない、航空通信実働部隊としても任務を遂行中であり、此の部門の充実を図らなければならない。したがって訓練部門で航空通信兵として使えるものは各航空部隊に転属させ、残りで編成替えをして決戦部隊とするのだが、間に合わず終戦になったのでは、と考えている。
 
 だが、よく調べてみると全く違っていた軍は既に昭和20年2月に、第7航空通信聯隊の復帰(解隊)を決定していたのだ。

 軍令陸甲第27号、陸亜機密第92号(昭和20年2月13日)在内地陸軍航空教育部隊編成、復帰要領、同細則に第7航空通信聯隊の復帰が定められており、人員、資材を管理官(航空総軍司令官)の定める部隊に転出して復帰せよ、と命じている。復帰の理由については知ることができなかった。

 この軍令は昭和20年4月15日から施行する。となっているので4月15日になれば復帰命令は発令されたことになるのだが、施行後復帰(解隊)命令が改めて出されたものであろうか、それが明和町発刊、ふるさとの年輪154Pに記載されている6月25日であるかは、確認することができない。

 何れにしても人員、物資の転出命令が順調に出されなかったのか、現実には連隊長は7月11日に転任して空席、一部の隊員は転属したようなものの、隊員の大部分は機動部隊の襲撃や、B29の爆撃を避難しながら終戦の日を迎えた。そして順次除隊手続きをして帰郷、以後は終戦処理隊により処理された。

参考
この軍令で復帰した航空部隊は次の通りである。
 第102教育飛行師団司令部
 第103教育飛行師団司令部
 第104教育飛行師団司令部
 第1航空教育団司令部
 第3航空教育隊
 第6航空教育隊
 第7航空教育隊
 第10航空教育隊
 第3練成飛行隊
 第8教育飛行隊
 第7航空通信聯隊
 第21航空情報隊


   (2014年5月15日追加更新)
 
15      旧第七航空通信聯隊跡の処理                 、
 
 終戦処理が行われた後、旧第七航空通信聯隊の跡は、土地と建物が大蔵省の所管となった。大きな建物は、戦災で焼けた公共用建物の立替材料として配分され、残った建物は、入植者の居住用に当てることにした。
 
 終戦後1年ほど経過したとき、不足している食料の増産をはかるため、練兵場や兵舎の跡地を開拓して農地とすることなり、開拓団を作り入植者を募集した。開拓団には此の聯隊の隊員だった数名を含め35人が応募、1人あたり屋敷を含め1町歩(1ha)の土地が割り当てられ、残りは旧地主に払い下げられた。
 
 開拓団員は、残された兵舎などの建物に居住し、畑と田の開墾を始めたのだが、此の仕事は可也困難を極めた。普段の生活も芋ずるや葉っぱを食べながら、飲まず食わずの苦しい生活をされたようだ。長年歯を喰いしばり頑張った甲斐があり約20年後にはそれぞれ住家を立て、立派に農家として独立した。
 
 このようにして聯隊跡地に出来た北野部落は、戦後60余年を経過した平成19年2月現在、宅地化も進み世帯数500戸の明和町最大の自治会となっている。
 
真上は、昭和23年米極東空軍が撮影した聯隊(点線内)の跡地の写真です。○印は明和町役場,
     下の写真はその後約60年後の様子



 
終戦後、兵舎の一部は入植者の住居に転用されていたが、給水搭と炊事場、酒保、医務室、送信所、受信所,自動車燃料庫等の建物は平成の世まで残されていた。
夏草やつわもの共が夢のあと‥‥奥の細道)
といった虚しさを残して。
 現在では、此の聯隊の遺構は若干の建物の基礎、幹線地下排水路、給水地、聯隊本部防空壕等が残っている。その一部を写真で紹介しよう
 

  1 平成の頃にまで残されていた炊事場と給水塔




















                    2.聯隊本部防空壕(御真影奉安所)

の防空壕は、20163月、町の史跡として指定文化財となりました。



















              3.聯隊本部防空壕(御真影奉安所)入口
















                      4..聯隊本部防空壕(御真影奉安所)北の室


















     5..聯隊本部防空壕(御真影奉安所)南の室

























                 6..聯隊本部防空壕(御真影奉安所)中から入口を見る




























              7.下士官集会所跡に残る基礎


















                 8.1中隊兵舎跡に残る基礎















                  9、3中隊兵舎跡に残る基礎
















                          10、4中隊兵舎跡に残る基礎



















          11、7中隊兵舎跡に残る基礎の一部



















           12、7中隊厠跡(2011年頃解体整理されたようである。)



















            13、8中隊兵舎跡の基礎の一部


















              14、自動車燃料庫 
     


















      15、被服庫跡、コンクリート布基礎と柱を立てた束石が5個×2














   
          16、此の竹林の中に給水池がある





















     17、竹林の中の給水池






















以上のカラー写真は、大阪市M,K氏より御提供を頂いたものの一部です。
(撮影2009/7/16. 2013/4/20)



(2013年6月11日更新)


17 シンボルタワーが消えた。

 明和町役場前の空き地に聳え立つていた、旧第七航空通信聯隊の使用していた給水塔、直径8m高さ28mの鉄筋コンクリート造りの巨大な搭は、
 
 「あの煙突のようなものがある町が明和町で、あの下あたりに役場があります」

とシンボルのように紹介され、田園地帯が広がる明和町では、ひときわ目立つ存在になっていた。
 
 此の給水搭は大蔵省が管理してきたのであるが、簡単に取り壊しも出来ず戦後50余年放置されていた。老朽化も激しく危険度がまして来たので、町では再三解体を要望した結果、平成13年総工費4500万円をもって解体され、完全に戦争の面影を残していた最後の基地建物は町から消えたのである。
 
 この給水塔には、此の部隊の隊員だった人、開拓団の人、又町の人と、それぞれの人々に違った数多くの思い出が秘められていたが、思い出の搭が消え、時代の推移と共に此の聯隊のことや、開拓団で苦労したことも忘れ去られてゆくことであろう。

ほんとに忘れてしまったのか、今町の中心である役場の幾つかのサイトで、この聯隊の聯隊名を間違えている。なかには部隊名と聯隊名を混同しているサイトもある。これは戦時中「第七航空通信聯隊」の聯隊名は「秘匿」とされ使用が許されなかったので、一般の人は知る由もなく、戦後は色々な聯隊名が記されたものがあり、迷っているものと思われる。

 
 

 写真 平成13年給水塔解隊工事の様子(明和町の歴史より)


 幻の航空通信聯隊 最後まで御覧下さいまして有難う御座いました
 
 公開時点インターネットの世界には全く姿を見せなかった第七航空通信聯隊、僅かではあるが当時の姿を語り伝え、併せて60余年前の人生の1コマを此のページに記録できたことを幸せに思います。



 
 
 < 終わり >



2007年3月11日  公開
 2021年6 月4日 最終更新

参 考 資 料  
 明和町広報紙  平成13年ドキメント版
 ふるさとの年輪  明和町発刊
 防衛研究所資料  アジア歴史資料センター閲覧
 

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