米軍は硫黄島攻撃に先立ち、太平洋上の機動部隊から関東上空の制空戦に出た、昭和20年2月12日早朝から関東上空は、米軍艦載機の猛攻撃が始まり、以後断絶的な攻撃に悩まされ、一般住民も巻き添えになり被害が多く出ていた。この様なことから米軍艦載機の攻撃についての知識や経験は入隊前に可也付いていた。
敵艦載機の攻撃を受ける。
第七航空通信聯隊に入隊した4月には、ここ伊勢周辺は、B29の爆撃は何回も経験しているが艦載機の襲撃は未だ無かった。したがって聯隊の将兵の大部分は艦載機の襲撃の経験が無かった。硫黄島の攻撃を完了した米軍機動部隊はやがて関西、中部地区も襲撃してきた。
空襲警報が発令され艦載機の襲撃が知らされた。
7中隊では、全員集合が係り、小銃弾が1人5発ずつ配られ邀撃体制に入った。中隊長が不在で、中隊付き少尉殿が指揮を執る、軍刀を抜いて「逃げたらぶった切るぞ」といった。皆小銃に銃弾を込め物陰に入り射撃命令を待つ。練兵場の東の空からグラマンF4U 3機が機銃掃射をしながら頭上を通過、少尉殿は「退避!退避!」と怒鳴りながら防空壕に飛び込んだ。
小生は敵機が真正面に向かっていなければ安全と考えていたので、物陰から上空のグラマンの様子を報告していると「早く壕に入れ!」と怒鳴られる、銃撃できずに残念だと思いながら防空壕に入る。グラマンは旋回して機銃掃射を繰り返す。1時間ぐらいは防空壕に缶詰、この様な艦載機の襲撃が度重なってくる。
聯隊が爆撃される。
6月下旬の朝、通信訓練に出かけようとすると、空襲警報が発令され退避命令が出る。防空壕に退避していると、やがてB29の爆音が頭上聞こえ、ドカーンと爆弾の炸裂する音が数発、地響きを立てる。B29の爆音が去るのを待って防空壕を飛び出して見ると、7中隊の兵舎が爆煙の中に木っ端微塵になっている。
周りを見ると6中隊も木っ端微塵、炊事場と入浴場もやられた。炊事場は火災が発生したがすぐに消火された。練兵場には直径10mぐらいの大きな穴が2箇所開いている。8発の爆弾が落とされ6中隊と、7中隊に各2発、炊事場、浴場に1発ずつ命中したのだ。聯兵場に出て周囲を見ると、鈴鹿や伊勢神宮の山々に数箇所の黒煙が上がっている。この火災は夕方まで続いた。
聯隊長より復旧命令が出る。
聯隊長より直ちに復旧工事をせよ、明日B29の偵察機が飛来するまでに、建物は外観を復旧、練兵場の爆撃跡は埋めたて芝を張り、爆撃の痕跡を残すな。と言う命令が出た。
材料廠と航技中隊はトラックを総出動して、爆撃された兵舎は直ちに片付け始める。中隊員も総出動で夕方までには綺麗に片付いた。そして柱や梁などの等の材料がトラックでどんどん運び込まれる、もう既に切り込んである。
7中隊隊員は、前の5中隊に間借りして夜を過ごしたが、炊事場が爆撃されて食事は出来ずに昼抜き、夜食に乾パンが支給される。乾パンと水で飢えを凌ぎ就寝する。明朝起床ラッパで目を覚まし、寝具を整理して外を見て驚いた、7中隊の兵舎は昨夜のうちに建てられ、屋根の瓦は葺かれ、外壁を取り付けて居る所だった。やがて窓枠が搬入されてはめられた。規格が決っているので在庫があったのだろうか?
何時ものパターンで午前11時ごろB29が1機が偵察に飛来した。しかし上空から見る限り、爆撃の痕跡は見えない。偵察機が去った後、材料廠と航技中隊は総動員で兵舎内の床張りや総ての工事が急スピードで施工され、寝台、机なども搬入、破壊紛失した下着、靴、小銃、帯剣等総てが整う。何たる早業であろう、さすがは軍隊、神業のようだと驚いた事は未だに脳裏に刻み込まれている。
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