国敗れて山河あり
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昭和20年8月29日、マッカーサーが明日厚木基地に来るという前日、全員完全武装で点呼集合が掛かる。点呼後「この部隊の武装を解除して、全員の除隊を命ずる」と言う週番仕官の命令があり、銃剣が取り上げられた後、除隊手続きが行われた。
この部隊は、古参上等兵と一等兵、幹部候補生7人の9人(この候補生の1人が小生。)本隊は多摩陸軍技術研究所にあったが出先で終戦となり,輸送の関係か、原隊復帰せずに途中の立川の前科者だけで編成された部隊に、居候として1週間ほど寄宿、此処で除隊となったのであるが、この部隊が何部隊か何処にあったか未だに思い出せない。居候は早く追い出せと言う事か、未だ除隊の気配は全く無かった時の事であった。
電車,汽車と乗り継いで5時間、故郷の駅「あさひまち」に着いたのは夜の9時頃、人影ひとつ無い暗い県道を砂石を踏みしめながら我が家に急ぐ、もしや我が家は基地に近いので爆撃されて無いのか?家族は心配しないように教えてくれなかったのではないか?等々考えながら歩く、 しかし周りの景色は変わっていない、途中で見える香取航空基地も、高射砲陣地も静かに夜のとばりに包まれている。
我が家の灯りが見えたとき、 有った! 有った! …………… 感無量!
家に着くと年老いた祖父、病がちな母、弟妹達が飛び出して迎えてくれる。祖父や母は涙にむせて声も出ないぐらい、航空兵だからと半分は諦めていたのだろう。しかし、未だ父が復員していないし、何時帰れるか解らないと言う。
父は昭和12年支那事変勃発後間もなく、近衛騎兵第2連隊特別編成の迫撃大隊に召集され、上海、南京、重慶攻撃と、3年余り支那(中国)大陸で戦い、除隊して数年でまた太平洋戦争で召集、横須賀重砲に入隊、終戦後も終戦処理で10月末まで帰れなかったのである。
現役入隊後、5ヶ月ぶりで迎えた我が家での朝、見渡せば隣近所、鎮守の森、干潟八万石の平野、総てが前のままだった。
国敗れて山河あり か
しかし、これからどうなるのか不安は募った。
香取航空基地の終戦処理が始まる。
香取航空基地も終戦とともに其の使命を終わった。当時各基地は指揮、管理系統の機能麻痺から大変な混乱があったが、他の基地の様な終戦を不満とする将兵の爆発も無く、暫時兵力は解散して行った。ただ多数徴用されていた朝鮮半島出身者も日本からの独立と云う報道に色めき立ち、一部では無法状態になった。
8月15日から終戦処理の部隊として関東海軍航空隊から保安隊(三井淳資大佐以下約130人)が香取航空基地に派遣され10月末日まで,香取航空基地と香取海軍航空隊の終戦処理の任務に当たっていた。
当時中央部では8月22日戦争指導会議が廃止され、政府終戦処理会議が設立された。9月1日政府及び大本営布告一般命令第1号が出され、国内外の部隊に停戦命令と各部隊の現状報告並びに一切の兵器、弾薬、装備、貯品、需品などのリストを作り速やかに連合軍司令官に提出せよと命令をだした。
当時の政府の対応は木炭自動車のごとく遅かったと世論は伝えている。保安隊も終戦直後において中央指示の遅滞と不明確により一部の処理配分に公平且つ妥当性を欠けたるものがあり遺憾なりと報告書に記している。
10月8日 香取基地には米陸軍第11軍団騎兵第112聯隊の一部(160名)が進駐したので、保安隊は同日基地及び航空隊の施設を引き渡した。兵器と軍需物資の大部分の引渡しを終了したが、弾薬は進駐軍側の遅々とした態度により10月中に終了の見込みが立たず、保安隊は10月末日を持って終戦事務を打ち切り部隊を解散、爾後は地元警察に残務の一切を移管した。
進駐軍が入ると基地の入り口の警備がMPに変わった。基地の内外をMPがジープで走り回っていた。この進駐軍が何時引き上げたかについては記録も見つからず記憶もない。
基地及び航空隊の撤去は進駐軍の指揮の下に進められており、保管されていた軍需物資は総てリストアップされ進駐軍に引き渡された。飛行機類は進駐軍によって破壊され、弾薬(魚雷、爆弾など一切)は進駐軍監視の下に貨車で銚子港岸壁に輸送され、借り上げ漁船によって海中投棄された。
終戦時飛行機は特別攻撃機として硫黄島攻撃などで消耗し、残存特攻機75機は鈴鹿基地に移り、残存可動機は僅か9機のみとなっていた。この残存機も燃料不足で飛べる状態のものは少なく、殆ど戦闘能力を失っていたといわれている。
又基地周辺には破損して使用不可能な飛行機をアメリカ空軍の攻撃妨害目標(偽装標的)として置かれていた。
建物については進駐軍の許可の下に大蔵省管財局から県を通じ空襲によって消失,または学制改革により新設される校舎建設用に払い下げられた。
格納庫………銚子駅舎、成東駅舎
管制塔………八日市場敬愛の校舎
兵 舎………八日市場市営住宅、県立技術専門校校舎
豊畑中学校外各地の新制中学校校舎
共和村でも昭和20年12月大蔵省から県学務課に使用許可が出て、新制中学校新設の校舎の建築資材とするため、総出の勤労奉仕で解体して牛車で運んだ、この頃はまだ格納庫にはガソリンの入った、飛行機の補助タンクなどもあった。
この基地に保管されていた軍需物資の中で生活物資は物資不足のときのまさに宝の山で、保安隊の手で正式リストを作成されるまでの約半月間に相当の物が不明になったと言われる。
戦後約半月余り終戦処理部隊である保安隊(香取基地隊)の手により、香取航空基地及び香取海軍航空隊に保管されていた軍需物資のリストが作成され進駐軍に引き渡された。その主な内容は次のとおりである。ただし香取航空基地と香取航空隊の区別はつかない。
1, |
軍用建築物 |
(面積平方メートル) |
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庁舎 司令部庁舎 |
木造平屋、木造二階屋各1棟 |
2棟 |
3.260 |
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兵舎 各隊兵士 |
木造二階屋 |
9棟 |
10.070 |
|
烹炊所 |
木造平屋 |
2棟 |
1.560 |
|
浴室 |
木造平屋 |
2棟 |
1.600 |
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士官舎 飛行隊士官 |
木造平屋、木造二階屋各1棟 |
2棟 |
2.080 |
|
病舎 |
木造平屋 |
8棟 |
4.180 |
|
汽缶場 |
木造平屋 |
2棟 |
700 |
|
発電機室 |
木造平屋 |
2棟 |
460 |
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飛行指揮所 管制塔 |
木造二階屋 |
3棟 |
620 |
|
機体整備場 |
木造平屋 |
6棟 |
24.200 |
|
発動機整備場 |
木造平屋 |
1棟 |
3.500 |
|
各種工場 |
木造平屋 |
7棟 |
15.020 |
|
各種倉庫 |
木造平屋 |
4棟 |
3.340 |
|
送信所 府馬所在 |
木造平屋 |
2棟 |
1.020 |
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送信所 鏑木所在 |
鉄筋コンクリート |
2棟 |
135 |
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自力発電所椿海所在 |
鉄筋コンクリート |
1棟 |
65 |
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各種耐弾庫 場内外 |
鉄筋コンクリート |
15棟 |
1.270 |
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飛行機掩体壕 場内 |
鉄筋コンクリート |
25基 |
6.600 |
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隊外酒保 |
木造平屋 |
3棟 |
3.200 |
2、 |
飛行機 |
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艦上攻撃機「天山」 |
7機 |
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破損機 |
2機 |
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艦上攻撃機「彗星」 |
1機 |
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破損機 |
2機 |
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艦上攻撃機「流星」 |
|
破損機 |
2機 |
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夜間戦闘機「月光] |
|
破損機 |
1機 |
|
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|
○式戦闘機「零戦」 |
|
破損機 |
2機 |
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局地戦闘機「紫電」 |
1機 |
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破損機 |
3機 |
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九三式水上練習機 |
1機 |
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九○式水上練習機 |
2機 |
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破損機 |
1機 |
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3. |
砲類 |
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12センチ高角砲 |
16門 |
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三式噴進機T型 |
3個 |
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迫撃砲 |
5門 |
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4. |
爆弾 |
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80番通常爆弾 |
98個 |
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その他の爆弾 |
60個 |
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50番通常爆弾 |
39個 |
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25番通常爆弾 |
538個 |
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その他の爆弾 |
975個 |
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6番通常爆弾 |
596個 |
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その他の爆弾 |
1476個 |
|
3番通常爆弾 |
132個 |
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1瓩演習爆弾 |
855個 |
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30瓩演習爆弾 |
196個 |
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陸軍よりの保管爆弾 |
606個 |
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5 |
魚雷機器 |
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九一式魚雷 |
58本 |
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魚雷信管 |
52個 |
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航空機雷 |
50本 |
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安定機 |
63個 |
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機雷電気信管 |
50個 |
|
九一式縦舵機 |
68個 |
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実用頭部改4、改7 |
62個 |
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九○式爆発尖 |
63個 |
6 |
機銃 |
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|
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25粍機銃 |
48門 |
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13粍機銃 |
6挺 |
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飛行機用20粍機銃 |
44挺 |
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九二式7粍機銃 |
7挺 |
|
飛行機用13粍機銃 |
7挺 |
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九九式軽機銃 |
7挺 |
|
飛行機用7.9粍機銃 |
108挺 |
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演習用軽機銃 |
2挺 |
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陸用 7.7粍機銃 |
13挺 |
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|
|
7 |
接戦兵器 |
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小銃 |
870挺 |
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拳銃 |
9挺 |
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擲弾筒 |
4筒 |
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棒地雷 |
40個 |
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棒信管 |
120個 |
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手投円錐弾 |
70個 |
|
簡易手榴弾 |
500個 |
|
陸用爆破薬 |
60個 |
|
仮称1号焼石弾 |
58本 |
|
手投火炎瓶 |
60個 |
|
仮称小型地雷 |
100個 |
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|
8 |
弾薬 単位個 |
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7.7粍機銃弾 |
718.510 |
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高角砲弾 |
1.014 |
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7.9粍機銃弾 |
126.600 |
|
25粍機銃弾 |
40.033 |
|
13粍機銃弾 |
88.500 |
|
13粍機銃弾 |
23.228 |
|
20粍機銃弾 |
42.200 |
|
拳銃弾 |
250 |
|
九九式小銃弾 |
18.745 |
|
迫撃砲弾 |
688 |
|
三八式小銃癌 |
7.830 |
|
三式噴進機弾 |
25 |
|
九九式軽機銃弾 |
15.960 |
|
訓練用小銃弾 |
62.240 |
|
陸軍よりの保管弾薬 |
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陸軍曵徹弾 |
66020 |
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陸軍榴弾格式 |
41700 |
9 |
電波兵器 |
|
|
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電波探信儀 |
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地上見張り用 1組 航空用 55組 射撃用 1組 |
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. |
その他 |
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詳細を極め,小は熊手から食用のケチャップ、味噌、乾パンに至るまで、大は修理工場の工作用研磨機まで総ての リストアップが作成されて引き渡された。
(2014年2月23日更新)
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香取航空基地の弾薬庫
終戦処理に当たり占領軍に引き渡しの際問題があり、引き渡しが遅くなったのが原因か最近此のサイトに弾薬庫の検索が多くなってきた。引き渡しの際作成された弾薬類の所在を示す引渡文書に記載された物の中から場所と在庫の爆弾、弾薬等を調べてみると概要は次の様になっている。(2012/7/6日追加更新)
◎基地内
第1耐弾庫 第1指揮所西
1k演習爆弾 照明弾 97式投下爆管等
第2耐弾庫 1500m滑走路北端から500m位の掩体壕地区
6番及び25番通常爆弾 7.7粍及び20粍機銃弾
第3耐弾庫 第2耐弾庫の東約100m
25番通常爆弾、6番陸用爆弾、1k演習爆弾、7.7粍機銃弾、照明弾
第4耐弾庫 第3耐弾庫の東約100m
25番通常爆弾、20粍、13粍,7.7粍、7.0粍機銃弾
第2火工品庫 1400m滑走路西端北の掩体地区
0式曳光信号弾、90式曳光投弾
第3火工品庫 第2火工品庫の東
1式、2式照明投弾、水面信号弾、信号発煙筒
◎基地近辺
第5耐弾庫 鎌数伊勢大神宮の前の軍用道路から南に入り西の山林の中
6番、25番陸用爆弾、発煙筒、7.7粍機銃弾
第6耐弾庫 第5耐弾庫と山道を挟んで反対側の山林
6番、25番、80番通常爆弾、25番陸用爆弾、13粍、20粍機銃弾、信号弾
第7耐弾庫 第6耐弾庫の東、基地排水路新川出口付近の山林
6番、25番、80番通常爆弾、7粍,7.7粍、13粍機銃弾
第8耐弾庫 軍用道路を東に新川の香取橋(現在の干潟大橋)を渡り南奥の山林
3番、6番、25番通常爆弾
鎌数大型弾庫 新川の東、第8耐弾庫の東、軍用道路の南の山林の中
3番、6番、25番、50番通常爆弾
魚雷格納庫 1500m滑走路北の端から北に500m位の掩体壕地区
bP、2には各11本の魚雷、bRには爆薬、信管等が保管されていた。
◎場外他町村
豊畑倉庫 基地から南に約2k、豊畑国民学校より南に少し行ったところ、
耐弾庫か、普通倉庫か詳細は未確認。農協の倉庫であった様な気がする。
50番、80番通常爆弾、13粍、20粍機銃弾
八日市場隧道弾薬庫(正確な位置の確認が出来て居ない)
八日市場の台地の縁には可なりの隧道が掘られ、軍需品。弾薬等が貯蔵されていた。
此の弾薬庫は第5号、第6号、第11号、第12号及び第13号が弾薬庫となっている。
基地からの距離が遠いせいか、爆弾は6号通常爆弾がある位で殆どが機銃弾である。
飯岡、瀧郷隧道魚雷、燃料庫
基地から7km位東の滝郷村の山際には隧道が2本掘られ
南側は滝郷1番隧道と呼ばれ、燃料が貯蔵されており、
その北に魚雷用隧道が掘られ、航空魚雷が貯蔵されていた。
土地は払い下げられ農地に開発される。
農林省は、農地開発営団をつくり、食料増産のため、各地の国有地を開拓させ耕地造成を行っていたが、昭和21年2月香取航空基地跡地に、山形県から200名の農兵隊を入植させ、入植者には2町3反歩を24ヵ年年賦で分譲するとの声明をした。
これに対して、元基地内で土地を持っていた地主達が「我々は戦争に勝つためだと先祖代々の土地、しかも墓地までも提供したのだ、敗戦の今日この土地を、他の地方の者に分譲されては子孫の死活問題だ」と、農地開発営団の追放運動を始めた。
この問題も間もなく元地主側の要求がとうり解決して、これを契機に土地の払い下げが始まった。元地主には買い上げ面積の半分を、又「東産業」と農耕隊にもそれぞれ払い下げた。 (と旭市史にはあるが東産業が使用していた滑走路は後工業団地が造成されるまで大蔵省の所管であった。したがって東産業に対しては貸借権であろうと理解している。)
土地の払い下げ価額は、1反(300坪)300円くらいと記憶している。買収価額が250円であったが、当時の物価の上昇は激しく、買収された昭和13年頃と比較して標準米価で52倍に成っていた時代であるので、かなり安かった。
農家の人々が「落花生2升で買えた。」と話していたのが思い出される。当時落花生のむき身1升が150円であった。
農地の開発が始まり整理された見事な圃場となる
基地跡の払い下げ問題は昭和24年頃まで掛かったといわれるが、農地開発営団は復員軍人の中から希望者を入植させるため元基地の西部に、1家族に土地100a,家屋(8畳と3畳の2間)をつくって斡旋した。昭和22年7月より53家族がここに入居し農地を開拓して農業を始めた。永い間農耕隊と呼ばれていた部落である。
この頃から元地主も払い下げられた土地の開墾が始まる。これが大変だ、枯れ草を焼き払った後を鍬と万能そしてエンピで1,5mぐらい深く天地返し。場外で未整備で窪みであった所は田にするのだが、周囲の土を埋め立てなければ成らない、ガマの穂や葦を取り除き、埋め立てて底の泥と混ぜる。こんな土方作業が1年ぐらい続く。24年の春には周りを見渡すとやっと農地らしくなってきた様な感じ、
しかし 新しい土だから作物は育たない、麦は20〜30センチ位、せめて蕎麦ぐらいと思い蒔いても収穫は自家用がやっと、次の年になると深く埋めたスギナやコウボシなどの雑草が首を出しはびこる。この様な苦しみと戦いながら、甘藷や落花生などを作付けして土壌を改良し、普通の農地になるには永い年月と労力が費やされた。
やがて、出来上がった農地は素晴らしい、新川の堤防に立ち一望すれば直線の幅広い防風林つきの幹線道路、間に入る耕作道路、排水路もつき、他人の畑を通ら無くてもよい路添えの耕地となる。しかしこれら道路は路添えの農家が管理しなければならないので、やがて様相が変わってくる。
開発当初の農地は殆ど畑であったが、その後食料事情や各種な問題で、畑の土が搬出され稲作用の水田に変化してゆき、新川から大きな揚水機で用水され稲作が行われていた。
夏草やつわものどもの夢の跡

旧香取航空基地跡地の航空写真
飛行場の中心にあったX字型のコンクリート重舗装の大型滑走路は周囲に若干の幅の土地を残し何時までも残った。
終戦後食糧事情は悪かった。食塩の不足に悩んでいたとき昭和21年2月東産業株式会社が設立され、大蔵省から27万坪の土地(滑走路等)と建物8棟を製塩事業という目的に転用許可を受け塩の製造を始めた。
九十九里浜でくみ上げた海水をパイプで引き込みタンクに貯水、この海水を竹笹などを組んだ大きな柵に散水、滴ってきた塩水を滑走路上で天日で濃縮すると言う天日製塩事業である。
しかし 取り入れ口の砂の体積、滑走路のつなぎ目からの漏水、日照不足等の障害もあり、その上水しぶきで周囲に塩害騒ぎも起こり、数年後には輸入塩が多くなるにつれて中止してしまった。
昭和28年2月又大騒動が持ち上がる。この素晴らしい滑走路に目をつけたのか突然保安庁より保安隊横須賀地方隊所属の西南方面地方基地としての内定通知が届いた。関係町村民はすぐに大会を開き「折角もとの農地に開拓したのを、再び保安隊に取り上げられては安心して農耕にいそしむ事が出来ない。」と決議し県庁と保安庁に陳情した。その後、どのような経過で旧基地跡が再び基地にならずにすんだのか明らかではない。
終戦からら30年余り、太平洋戦争の面影を残し、生え茂る草むらの中に、X状の滑走路が残されていた。
時代の推移と旧香取航空基地の再開発
昭和29年7月1日市町村合併により旭市が誕生して、共和村も旭市となつた。
旭市も旧香取航空基地に残る滑走路の利用については大きな懸案事項であった.国際空港、火力発電所など色々な噂が出たものだ。
昭和30年代後半に市の基本構想に基づいて地域活性化と雇用の拡大から、農業と工業のバランスの取れた産業の発展を目指して進むことになり、滑走路を中心とした旧基地の中心部一体の地域を、都市計画法にもとずく工業振興地域に指定し、農地などの土地を工業以外への土地転用を規制した。
続いて昭和37年9月、国の第一次低開発地域工業導入地区の指定を受け「,旭鎌数工業団地」として造成する事になり、滑走路を基準に4ブロックに分け西側のブロック(A地区)を千葉県土地開発公社、南側のブロック(B地区)旭市土地開発公社に依頼して用地買収を始めた。
用地の買収は遅々として進まず、職員は昼に夜に農家を訪問して協力を求めたが、やっと帰った土地で、苦労して開発した農地を手放せない、と言う農家の強い意志であった。しかし年月の経過と社会情勢の変化とともに、周囲の農家では家庭の事情から農地を手放す者もあり、これを代替地として提供するなど、苦労してA地区は昭和41年3月21,8ヘクタールの造成開始を迎える事ができ、42年12月に完成して分譲を始めた。
B地区23,9ヘクタールは昭和59年6月から造成を開始して61年3月に完成し、分譲に入った。この地区の地権者は50人、戦時中の軍の土地買収と違い、いかに土地買収が困難であった事かが推測される。
やがて年号が昭和から平成に替わった。残るC,D地区48,34ヘクタールは、平成元年千葉県土地開発公社に依頼して用地買収が継続され、平成8年3月に用地取得が終わった。同年5月より造成に入り、平成13年3月造成が完了。その後「あさひ新産業パーク」として分譲が進められ現在16社が進出している。このCD地区の総事業費は148億3,700万円と言われている。
(2014.,3,17 社数訂正)
図面の褐色部分は進出企業が操業している区割り
(平成17年現在)

CD地区に進出した企業の状況(2014.3.17追加)

工業団地に甦った旧香取航空基地

見事に甦った数工業団地、はるか彼方に鹿島工業団地を望む、
鎌数工業団地はA,B地区は26社が進出して操業中であり、C,D地区も造成が完了し、16社が進出、団地内も道路の整備と共に姿を変え昔の航空基地の面影は上空から見ない限り解らない。(2014.,3,17 社数訂正)
国道126号線から分岐して南北に走る東西2本の都市計画道路、それと交わる東西の都市計画道路は幅員15〜16mで街路樹のある整然とした道路である。
朝はこの団地で働く人々が続々と通勤してくる様子を見ると旭市が更に新しい発展を遂げつつある事が実感される。
大気汚染、騒音発生、汚水排水等の公害防止には各企業とも留意しているので大きな問題は無いが、人口の社会的増加に伴う住宅問題や学校問題、朝夕の国道の混雑など、解決を要する諸問題も多くなった。
旭緑地公園の戦没者慰霊碑と自衛隊機の展示

戦没者慰霊碑
慰霊碑の碑文
工業団地の西側に緑の少ない「旭緑地公園」がある。周囲には民家が無いせいか普段は訪れる人も無い静かな公園である。この公園の一角に高さ約4,5M 幅約8M 三角形の慰霊碑が建っている。太平洋戦争で亡くなられた関係者の慰霊のために昭和51年 建設期成会が建立したものである。
碑文には
この地は太平洋戦争末期に完成せる香取航空基地の跡なり
慰霊碑は この飛行場より飛び立ち訓練に惑いは戦場に
向かい そのまま還らざりし若鷲等と空襲により没せし市民の
御霊を祀る ものなり
彼等に限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民
有志は 御霊よ永遠に安かれ と祈り又 将来の平和の
礎たれ と念じ 互いに力を合わせこの碑を建立し
謹みて 碑内に霊名簿を納む
昭和51年11月21日
慰霊碑建設期成会
と記されており、霊名簿には1,205名の霊名が納められている と聞いている。
戦争は多くの人々に計り知れない傷跡を残すものであるが、特に太平洋戦争は交戦国の数、兵器の規模,核爆弾の使用などから我が国のみならず、多くの国々の人々に癒し切れない悲しみを与えた。
この碑の前に立ち、戦争という悲劇を改めて確認すると共に、青春の若い命を散らしていった人達への鎮魂と、平和えの願いを強く思考せざるを得ない。
御霊よ願わくば 泉下,香泉の地に悠久安住の安らぎを得られんことを 敬弔合掌